カミュ / 異邦人(窪田敬作 訳)

名作, novel 小説

フランス文学コーナーで発見、古典とか、ヨーロッパ文学に少々興味が湧いてきていたため購入。


ムルソーは異邦人か?

ムルソーという青年(25歳~30歳くらい?)が、人殺しをし、死刑を言い渡されるという話。

時代なのか、あえてなのかわからないけど、訳は上手い感じではないです。ちょっと読みにくい。


さてムルソーが母親の通夜に行くところから始まります。
当時のフランス、それも「養老院」が何なのか、そしてそれらの通夜の常識が分からない私にとっては、どこからどこまで「常識的に考えて」なのかが分からなかった。
ようやく中盤になって「養老院」とは、愛すべき家族をやるのに適切と思われる場所ではない(たぶん、自ら生きていけなくなった人を匿うセーフティネット的な施設なのだ)と理解。

その後、成り行きで「友人」(作中では「仲間」)となった男のゴタゴタに、成り行きでそのまま巻き込まれ、手にしていたピストルで相手を射殺してしまう。

「ただ「その時」を生きる」「全てはなるようにしかならないし、自分は思った通りのことをするまで」的なキャラクターであるムルソーは、異端だとして死刑に処されるわけですが、それを決める裁判はなかなか面白いです。

作品はムルソーの視点だから、検事の言い方は少々気に障るというか、「大袈裟だなあ」「こじつけも大概にしようぜ」と言いたくなるんだけど、叙情的な人や、そういう視点からムルソーを見れば、検事の言い分も最もだと言いたくなるかも知れない。
あるいは、たとえその殺人に狂気が無かったことを認めたとしても、むしろ「さくっと人殺しもしちゃうし特別後悔もしてない様子」の人物をこのままシャバに返すのは危険過ぎるので死刑、というのも、理解できます。

このあたりが
「ムルソーは異邦人か?」
「異邦人はこの世から抹殺すべきか?」

という問答となって面白いです。


叙情的であることはコミュニティ内で生きていく上でけっこう重要

とても個人的には、通夜の翌日に女と海水浴に行ったとかは特に本当どーでもいいですね。
女と海水浴に行くことが、肉親を失った悲しみを癒やす手段とは言えないんでしょうかね…。

それと母親を養老院に入れた云々とか、通夜で涙を見せなかった云々とかに関しても、どちらかというと薄情なのは間違いないとは思いつつも、なんで自分と母親の関係について他人にとやかく言われなくてはいけないのかという気分になりました。
進んで虐待していたとか、若くにして亡くなってしまったとかじゃなく、仕事を休んでしっかり通夜に参列したのだし、そもそもかなりいいお年だったわけで、もう亡くなってしまったという現実を静かに受け入れていたというごくごく普通のことだと思いますけどね。
養老院に入った云々も、その二人にしか分からない事情があったわけで、ムルソー氏が進んで好ましくない状況を作ったわけでもないと思うし。

まあだからと言って成り行きで人殺しちゃうって狂気の沙汰だし、平然としているのも恐ろしいですけどね。

どちらにしろ、人って他人の評価によって社会で生きているし(そうではなく快適に生きていける人は本当に稀)、裁判とか「他人が判決を下す」場合なんかも含め、「共感をしてもらう」ためには、「感情を吐露」したり、涙を流したり、ということが重要なんだなあと思ったり。
いわゆる「人間らしい」所作により、なぜか人って親近感や理解を覚えたりしますよね。

最後の最後、司祭が詰め寄ってきたのも、自分の望む「そういうの」を引っ張りだそうとした感じですが、逆ギレされることで、むしろ読者側には「そういうの」が出たなという安堵感はあったように思います。


中世は愛憎の時代?

ばっくりと近代以前の、とくにヨーロッパって、どうも叙情的過ぎる面があるイメージがあります。
私が現代日本で平和ボケをしているだけなのかもしれませんが、色恋沙汰でドンパチとか、愛情、愛憎、恨みといったたぐいの「究極の昼ドラ」を素でやってるというか楽しんでやっているというか、ついていけない感覚になることがありますね。

ヨーロッパ古典作品であるロミジュリやアイーダとか、嵐が丘とか。
生きるか死ぬかがもっと身近だった時代はみんなそうなのかなあ。

で、そういうのへの暗喩的な批判としての「ムルソー」、だとか「ストリックランド」なのかもしれないなとも思います。

それから暗に「社会」や、社会と個人とのあり方を描く作品が多い気がしますね。

解説にて、サルトルと同じ分類で語られる事が多いが、そうとは思わない、という下りがあったので、次はサルトルでも読んでみようかな。