エーリッヒ・フロム / 愛するということ(THE ART OF LOVING)

2023-11-06名作, 味わい本(じっくり読みたい), psychology 心理学, self-dev 自己啓発/リーダーシップ, social 社会まとめ

スポーツ選手が「影響を受けた本」かなにかで挙げていた本。

初見は「めっちゃ難しい」「きっとこの先何度も読むことになる」という感想です。

そして、結局まとめに1年もかかってしまいました。。
やはり何度も読み返したいな、と思います。


「愛する」のは、習得可能な「技術」であるが、修得は容易ではない。

冒頭で「愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、きっと失望するにちがいない。」と、しょっぱなから「愛されるための○○10選☆」みたいなお手軽キュレーション記事を期待しているような人を一蹴。

続けて
自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力を上げて努力しないかぎり、人を愛そうとしても必ず失敗する。
満足のゆくような愛を得るには、隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律をそなえていなければならない。
と、ハードルをガン上げ。

もうここに大事なこと全部書いてある気がしますが、本書は「そもそも愛とは何なのか?」という問いを整理しながら、後半1/4で「愛の修練」ということで「どうやって愛する技術を得るか」という話が展開されます。

まずこの「愛とは何なのか?」の考察がとても面白い。
細かくなりますが、復習用にまとめてゆきます。

【第1章】愛は習得可能な「技術」

多くの人は、愛することは学んで身につける技術ではなく「落ちる」ものだと思っている。

その前提を支えるのは、この2つ。
① 多くの人は愛の問題を「愛される」問題と捉えている
② 愛するということは「対象」の問題であり「能力」の問題ではない(「いい人がいればいいのに…」)

そして、この2つの前提には時代背景が強く関係している。

1,「自由恋愛」によって結婚へ至る、という文化シフトによる「対象の重要性」の増大
2,現代の商業的な生活文化(あらゆるものを手元のお金で交換可能かどうかで捉える)により、「自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思った時に、恋に落ちる。」
3,二人の間の壁が取り払われたと感じる瞬間の「恋に落ちる」状態と、「愛の中にとどまっている」という持続的な状態とを混同している

愛を修得するには、理論に精通し、修練に励むこと。
そして忘れてはならないのは、「その技術を修得することが自分にとって究極の関心事にならなければならない。」
金や名誉を得る方法だけが習得するに値する───そんなふうに考えていないか。

【第2章】孤立を克服したいという欲求と、解決策4つ

孤立しているという意識から不安が生まれる。
実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。
したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち物事や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。
アダムとイヴは「善悪の区別を知る知恵の木の実」を食べて神への服従を拒み、「裸であることを知り、恥じた」
これは、性器が丸出しで恥ずかしいということではなく、「孤立した存在であることを知った」が、まだ「愛し合うことを知らない」から。
ここから恥が生まれ、罪と不安もここから生まれる。

人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

どの時代のどの社会においても、・・・ いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他社との一体化を得るか、という問題の解決に迫られている。

解決策① 祝祭的興奮状態 (一時的な一体感) ありとあらゆる種類の祝祭的興奮状態。お祭りとか、部族そろっての儀式とか。
性的体験もそれに含まれる。部族での乱交とか。これは正式な義式だったりするので、罪悪感はない。

→ そういう集団行事が無くなると、アルコール中毒や麻薬常用が解決策となる。これは罪悪感がある。

セックスによる興奮状態は、ある程度正常な方法であるので、アルコール中毒や麻薬常用とは実は少し違う。
ただ、これしか解決策が無いという逃げ道としてセックス依存症的になるのは、アル中とかとあまり変わらない。

こういう興奮状態による合一体験の特徴:
・強烈、ときには激烈
・精神と肉体の双方に渡り、人格全体に起きる
・長続きせず、断続的・周期的

解決策② 集団への同調 (偽りの一体感) でも、人々が解決策としてもっとも頻繁に選んできた合一の形態は、集団、慣習、慣例、信仰への同調にもとづいた合一であり、正反対の特徴を持つ。

・おだやかで惰性的
・精神にとっては効果的だが、肉体にはあまり効果がない
・長続きする

文化が発達し集団の規模が大きくなってゆく。
独裁と民主主義は、確かに民主主義は「集団に同調しないことも可能である」が、「民主主義においても、ほとんどすべての人が集団に同調している」。

なぜかというと、いかにして合一感を得るかという問いには、どうしてもなんらかの答えが「必要」なのであり、ほかに良い方法がないとなると、集団への同調による合一がいちばん良いということになるのだ。
(たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気付いてすらいない。
誰もが──自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ──と幻想を抱いている。)

ちがいをどんどんなくしていこうというこの傾向は、先進工業国で発達しているような、平等の概念やその経験と密接関係がある。
宗教的な文脈では、平等といったら、われわれはみな神の子であり、誰もが同じ人間としての高貴な資質をそなえており、われわれはみな一つである、という意味だった。
それはまた同時に、個人と個人のちがいは尊重されなければならない、われわれが一者であることは確かだが、それと同時にわれわれ一人ひとりは唯一無二の存在であり、それ自体が一つの宇宙である、という意味でもあった
現代の資本主義社会では:
「一体」ではなく「同一」を意味する。
雑多なものを切り捨てた同一性。
この没個性的な平等こそ理想であると説くが、それは粒の揃った原子のような人間が必要だから。
そのほうが、数多く集めても摩擦なしに円滑に動かせることができる。
誰もが、自分は自分の欲求に従っているのだがと思いこんでいる。現代の大量生産が商品の標準化を必要としているように、現代社会の仕組みは人間の標準化を必要としている。その標準化が「平等」と呼ばれている‥

孤立から生じる不安を和らげる方法として、「集団への同調」と、もうひとつ。
仕事も娯楽も型どおりのものになっている。
誕生から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている。
このように型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスをあたえられたということ、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。
解決策③ 創作的活動 (人間どうしの一体感ではない) 一体感を得る第三の方法は、創造的活動である。
それがどんなものであれ、想像する人間は、「彼の外にある世界の象徴」である素材と一体化する。
ただしこれは、「私が」計画し、生産し、自分の眼で仕事の結果を見るような仕事のみである。ベルトコンベアーのうえに労働者がのっているような、現代の動労の仕組みには、このような仕事の対象との一体感はほとんど見られない。

完全な答え: 愛
生産的活動で得られる一体感は、人間どうしの一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある。

愛とは

愛には二種類ある。
A 実存の問題にたいする成熟した答えとしての愛
B 共棲的結合と呼びうるような未成熟な形の愛


B 強制的結合

生物学的な形:たとえば母親と胎児の関係

受動的な形:服従。人や神、宿命、病気、音楽、麻薬や催眠術による興奮状態への・・・服従。マゾ。
統一された人格を捨て去り、自分の外にある人や物の道具に成り下がる。そうなると、生産的活動によって生の問題を解決する必要がなくなる。

能動的な形:支配。サディズム。
他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人をとりこむことによって、自分自身を膨らます。

どちらも、相手に依存していて、相手なしには行きてゆけない。

A 成熟した愛

自分の全体性と個性を保ったままの結合である。
愛は、人間のなかにある能動的な力である。
人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。
愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。
愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。
活動にも2つ意味がある。

1:自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐ
いわゆる「活動的」「能動的」と言われるのは、「動機」をムシして、「達成すべき目標が自分の外側にある」もの。
でも、これは、不安と孤独にさいなまれて「駆り立てられて」いるだけなのであれば、受動的というべきだろう。

2:外界の変化には関わりなく、自分に本来そなわっている力を用いるということ
静かに椅子に座って、自分自身に耳を方向け、世界との一体感を味わうこと以外なんの目的ももたずに、ひたすら物思いにふけっている
実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢は、もっとも高度な活動である。
内面的な自由と独立がなければ実現できない、魂の活動である。

★ちなみにスピノザ:のいう「感情」
能動的な感情:行動 → 愛。人間的な力の実践。自由でなければ実践できない。これを行使するとき、人は自由であり自分の感情の主人。
受動的な感情:情熱 → 慾望、嫉妬、野心、貪欲…。駆り立てられ、自分では気付いていない動機のシモベ

愛は能動的な活動であり、「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」もの。
愛はなによりも与えることであり、もらうことではない
与えること:
✕ 何かを諦めること、剥ぎ取られること、犠牲にすること
○ 自分のもてる力のもっとも高度な表現。その行為を通じて、力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、喜びを覚える。自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びを覚える。もらうことよりも喜ばしい。なぜなら、与えるという行為が自分の生命力の表現だから。

✕ →
性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受け止めている。
基本的に非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じている。
犠牲を払うことがだから美徳である、と考える人は、喜びを味わうより剥奪に堪えるほうがよいと考えてる

たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。
…気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのだ。
しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。
では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。
自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。
これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。
自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。
もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。
マルクス「人間を人間とみなし、世界にたいする人間の関係を人間的な関係とみなせば、愛は愛とだけ、信頼は信頼とだけしか交換できない。」

与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話じゃない。
教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒やされる。
ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うことなく、純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない。

愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。
依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとかなんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し
自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。

これらの性質が欠けていると、自分自身を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。

愛の能動的性質を表す、(与える、とは別の)他の要素
これらは互いに依存しあっている。

・配慮 → 愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること
愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かちがたいもの。
・責任 → 義務、外側から押し付けられるもの、、ではなく、完全に自発的な行為。
他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ何かを求めてきたときの、私の対応である。
「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる容易がある、という意味
・尊重 → 人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力。
他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうこと。
愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。
誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。
自分が独立していなければ、人を尊重することはできない。

・知 → 尊重するには、相手を知らなければならない。
愛の一側面としての知は、表面的なものではなく、確信にまで届くもの。
自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

「孤独の牢獄を抜け出して他の人と融合したいという根本的な欲求は、もう一つのすぐれて人間的な欲求、「人間の秘密」を知りたいという欲求と密接に関わっている。

知るための方法は2つある。
・他人を完全に力で抑え込むこと。一個の物にしてしまう。
・愛の「行為」。能動的に相手のなかへと入ってゆくことであり、その結合によって、相手の秘密を知りたいという慾望が満たされる
思考だけによる知ではけっして満たされない。でも、行為のまえに思考によって知ることが必要。

人間を知るという問題は、神を知るという問題は、神を知るという宗教的な問題と並行関係にある。

西洋の伝統的な神学:思考によって神を知ることができる
神秘主義:神との合一体験
(神について知る余裕も必要もない)

人間どうしの合一体験も、神との合一体験も、決して非合理ではない。
それどころかそれは合理主義の、もっとも大胆で徹底した帰結ですらある。
「わたしたちの知には、本質的に限界がある」から。

神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。
…ここまでは合一への普遍的・実存的欲求の話。

それから、男と女という2つの極の合一の慾望。

もともと一つだったものが切り離されたことにより、合一を求める

男も女も、自分の内なる男性性と女性性が統一されたときにはじめて、内的な調和を得る。
この二極性こそがすべての想像の基礎である。

受容原理、侵入原理。

フロイト「愛は性衝動の表出あるいは昇華である。性的欲望が愛と合一への欲求のあらわれであることは認めない。」

フロイトは、性欲を、腹が減るとか喉が渇くとかと同じものとみなしたが、それなら性的満足を得る理想的な方法はマスターベーションということになってしまう

※フロイトは父権主義であり、性を本質的に男性的なものと考えていたらしい。

男と女が引かれあうというのは、性的に引かれあうことだけではない。
…性格にも、男性的・女性的というちがいがある。
男性的性格の特徴:侵入、指導、活動、規律、冒険
女性的性格の特徴:生産的受容、保護、現実性、忍耐、母性
(実際の男と女は、こういう性格をどちらも持っているが、どちらが優勢であるかって話にすぎない)

親子愛について

赤ん坊のころ: ナルシシズム状態(フロイト用語で言えば。)
人間や物質といった外界の現実は、体の内的な状態を満足させるかさせないか、という点でしか意味を持たない。
母親の愛は無条件。わざわざ獲得する必要がなく、資格もいらない。

8歳~10歳頃まで: もっぱら「愛されること」が本人にとっての問題であり、まだ自分からは愛さない。
だが、母や父に「何かを贈る」ことで、愛が芽生えてゆく。

思春期: 自己中心主義を克服する。=他人は自分自身の欲求を満足させるための手段ではなくなる。
愛されることによって何かをもらうというのは、自分は小さく、無力で、病気でなければならない。あるいは「良い子」でなければならないが
いまや相対状態を乗り越え、愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分の中に感じる。

幼稚な愛は、「愛されているから愛する」という原則に従う。「あなたが必要だから、あなたを愛する」
成熟した愛は、「愛するから愛される」という原則に従う。「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」

母親の愛、父親の愛

※ここでいう「母親」とか「父親」とかいうのは、実際の母親とか父親を指すのではなく、概念的なもののようだ。
※「私が母親の愛とか父親の愛というとき、それはマックス・ウェーバー的な意味での「理想型」あるいはユング的な意味での元型について言っているのであって、すべての母親あるいは父親がこういうふうに愛するという意味ではない。私は、母親あるいは父親の姿をとってあらわれる母性原理・父性原理ついて述べているのである。」

母親的な愛は、無条件な愛。 生まれた家。自然であり、大地であり、大洋を表す。
[否定的な側面もある] 無条件だから、獲得しよう、作り出そうとしてもコントロールできない。

父親的な愛は、条件つきの愛。 思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表す。→教育し、世界へつながる道を教えるのが父。
私有財産が生まれ、その財産を息子の一人に相続させることができるようになった・・・自分の財産をたくせるような息子を探す・・・「私がおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」というのが父親の愛の原則。
[肯定的な側面もある] 条件付だから、獲得のために努力することが可能。

子どもからみて必要性も違う。
6歳ごろまでは母親の無条件の愛を必要とするが、それ以降は父親の導きを必要とするようになる。

母親: 子どもの安全を守る役割を持つ。
母親の愛は、子どもの成長を妨げたり、子どもの無力さを助長したりはしない。生命力を信じなければならない。
子どもが独立し、やがては自分から離れていくことを願わなくてはいけない。

父親: 子どもが生まれた特定の社会が押しつけてくるさまざまな問題に対処できるよう、教え導く役割を持つ。
父親の愛は、原理と期待によって導かれるべきで、脅したり権威を押し付けたりすることなく、忍耐づよく、寛大でなければならない。
成長する子どもに、すこしずつ自分の能力に気づかせ、やがては子どもがその子自身の権威となり、父親の権威を必要としなくなるように仕向けなければならない。

・・・やがて子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。
いわば母親的両親と父親的両親を併せ持っている。

母親的両親は言う。
「おまえがどんな過ちや罪をおかしても、私の愛はなくならないし、おまえの人生と幸福にたいする私の願いもなくならない。」
父親的両親は言う。
「おまえは間違ったことをした。その責任を取らなければならない。何よりも、私に好かれたかったら、生き方を変えねばならない。」

フロイトの言う「超自我」とは違って、母親や父親を取り込むのではなく、自分自身の愛する能力によって母親的両親を築き、理性と判断によって父親的両親を築き上げる。
母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後には双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の発達である。
これがうまくいかないことが、神経症の基本的な原因である。

愛の向き先(愛の対象)

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。
愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。

① 兄弟愛 (対等な者への愛)

もっとも基本的な愛。「汝のごとく何時の隣人を愛せ」の、隣人のこと。
あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊重、理解(知)のこと。
その人の人生をより深いものにしたいという願望のこと。

兄弟愛の底にあるのは、私たちは一つだという意識。本来すべての人間の核は同一であり、その同一間を感じるためには、相手の核に踏み込む必要がある。
…自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。

② 母性愛 (無力な者への愛)

母性愛が持つ「無条件の肯定」には、2つの側面がある。
1、子どもの生命と成長を保護するための気づかいと責任
2、(自分自身含めて)生きているというのは素晴らしい、といった感覚を与える(人生にたいする愛)

神が天地と人を創造し(1)、「これでよし。」と毎日言う(2) ように。
これは「乳(1)と蜜(2)」とも表現されている。
この(2)が大事なのは言うまでもないが、これができる母親は少ない。

ところで母性愛の真価が問われるのは、幼児にたいする愛においてではなく、成長をとげた子どもにたいする愛。
というのも、幼児に対する愛は、本能的なものでもあるし、自身が創造主となり世話をすることそのものがナルシシズムを満足させることにもなるから、比較的容易なのに対し、成長して巣立った子どもを愛する(子どもが巣立つことを望み後押しする)というのは、「徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が必要」だから。
これはおそらく実現がもっとも難しい愛の形。

③ 異性愛

母性愛が「一つだったものが別離する」であるのに対し、異性愛は「別々だったものが一つになる」もの。
兄弟愛、母性愛は、対象が「一人」ではなかったが、異性愛はそうではない。異性愛は排他性を持っている。

異性愛とよく誤解されるのが、「恋に落ちる」という劇的な体験。
すなわち、「さっきまで他人どうしだった二人のあいだの壁が突然崩れ落ちるという体験」。
一度恋に落ちると親密になり、たいていの場合は「壁が崩れ落ちて同一感を感じる」といった経験がなくなってゆくので、それが「愛」だと思っていると、また別のまだよく知らない人との愛を求める。

しかも、性的欲望というのは誤解されやすい性質を持ってるのでそういう幻想を支えてしまいやすい。
本来は単なる生理的欲求ではない、とは言ったが、愛だけではなく孤独の不安、征服したい・されたいという願望、虚栄心、傷つけたいという願望、ときには相手を破滅させたいという願望など───どんな激しい感情とも容易に結びつき、かきたてられる。
たいていの人は、性欲を愛と結び付けて考えているので、二人の人間が肉体的に求め合うときは愛し合っているのだと誤解している。

また、異性愛は排他性を持っているが、それは「所有欲にもとづく愛着」──ほかの人には目もくれないといったような──のは、利己主義が2倍になっただけで、実際には孤立しており一体感は錯覚でしかない。
異性愛の排他性というのは、「相手を通して人類全体を愛する」、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味。

でも、そもそも「愛」の考え方からすれば、本質的にすべての人間は同一であるし、愛とは意思にもとづいた行為であるべきだから、相手は誰でもいいということになるのじゃないか──。そして意思にもとづいた行為(誓い)をたてたのであれば、うまくいかなければ簡単に解消できるものではなく、絶対に離婚すべきではないということにならないか。
これは、実はどちらが正しいとは言えない。
人は本質的に同一(一者)だが、同時に、ひとりひとりはかけがえのない唯一無比の存在。
兄弟愛という意味ではすべての人を同じように愛し、異性愛という意味では、一部の人にしか見られないような、特殊な、きわめて個人的な要素を必要とする。

④ 自己愛

「自己愛」は「利己主義」と同じことだとみなされいる。
例えばカルヴァンは自己愛を「ペスト」と呼んだし、フロイトは自己愛を「ナルシシズム」と同じものと捉え、(他人に向かう)愛と自己愛は排他的だとした。

だが、「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方は「自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せない」という考え方に基づいている。

「自分の家族は愛するが他人には目を向けないといったことを、ウィリアム・ジェイムズは『分業』と呼んだが、これは根本的に愛することができないことのしるしである。」

「もし自分自身を愛するならば、すべての人間を自分と同じように愛している。他人を自分自身よりも愛さないならば、ほんとうの意味で自分自身を愛することはできない。」


⑤ 神への愛

神への愛(の欲求)も、孤立の経験と、そこから生じる欲求、すなわち合一体験によってその孤立の不安を克服したいという欲求に由来し、それは人間に対する愛と変わらない。

「多神教か一神教にかかわらず、神を崇拝するすべての宗教において、神は最高の価値、最高の善の象徴である。
したがって、人が神をどのようなものとして捉えるかは、その人が何を最高善と考えているかによって異なる。」

人類の歴史でもそれは変遷してきた。
まだ原初の絆にすがっていた時代は、動物や樹木の世界(自然界)と一体化しようとしてトーテム、動物の仮面等を用いて動物を崇拝した。
自然の恵みだけに頼らず人類が自らの手で物を作れるようになると、粘土や銀や金で作った偶像を崇拝した。
「つまり、疎外された形で、自分の能力や財産を崇拝するのである。」

そして「人間こそがこの世で最高の”もの”であることを発見」すると、神に自分(人間)の姿を与える。
これは2つの側面で発達していく。

1、神が女性的な性質をもつか男性的な性質を持つか

母親中心的な宗教 → 父親的宗教への発達
「…すくなくとも数多くの文化において、父権的宗教の前に母権的宗教があったことはほぼ間違いない。」

母親の愛は平等で、母の前においてすべての人間はみな平等である。

だが、私有財産制の発達と平行して父権制社会が発達した。
「父親が要求し、規律や掟をつくることであり、父親が子どもを愛するか否かは、子どもが父親の要求に従うか否かにかかっている。」
インド、エジプト、ギリシアの文化、ユダヤ・キリスト教、イスラム教などは父権的世界の典型。

しかし母性愛を求める気持ちを根こそぎにすることはできなかったから、実際にはそれは同居している。
ユダヤ教:神秘主義のさまざまな流れにおいて、神の母親的側面が導入された
カトリック:教会や処女マリア
プロテスタント:母親像は表立ってはいないが抹消されてはいない

2、人間がどの程度まで成熟したか

人間の進化は、母親中心的な社会構造から父親中心的なそれへと移行し、宗教もまた同じ道をたどったので、愛の成熟過程は、おもに父権的な宗教の発達の中に跡づけることができる。

…最初、「横暴で嫉妬深い神」がいた。
この神は自分の作った人間を自分の所有物とみなし、人間にたいしては自分の好き勝手なことをする。

しかし、ノアと契約を結び、二度と人類を滅亡させないと約束し、また、すくなくとも正しい人が10人いたらソドムを救うべきだというアブラハムの要求にも従わざるを得なくなる。
こうして横暴な部族長から父親になり、正義・真理・愛の象徴となっていく。
この発達過程で、神は人間であること、男であること、父親であることをやめた。つまり、名前を持つことをやめた。

その後の神学の発展のなかで、神にいかなる肯定的属性も与えてはならないという原理に発展。
つまり、賢いとか、強いとか、善いとかいうことは、やはり神が人間であることを暗に示してしまうから。
こうして一神教神学においては、神は「名前のない唯一者、表現不能の者」となる。

──だが、ほとんどの人はその人格の発達において、この幼児的な段階を脱していない。
したがって、ほとんどの人にとって、神を信仰するということは、助けてくれる父親を信じるという子供っぽい幻想なのだ。

真に宗教的な人は、もしも一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神にたいして一切何も求めない。
そういう人は、自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけており、自分が神について何一つ知らないということを承知している。
……したがって、神を愛するということは、……、「神」が象徴しているもの(精神世界※、愛、真実、正義など)を実現したいと望むことなのだ。

※人間を超越しており、人間の精神的能力や、救済や内的誕生への渇望に、意味と正当性を与えるもの。

つまり、厳格な一神教(非神学思想・神秘主義的)は、
あらゆる「神についての知(神学)」の否定(表現不能の者だから)を意味する。

一神教は、あらゆる神学の否定…となってしまうが、有神論(精神世界は実在するとする)でもある。

人間の外、あるいは人間を超越した精神世界は存在しないと考える非有神論(初期仏教や道教など)的には、(精神世界は実在しないので)、人間は、他人を助けないかぎり、まったく孤独である、ということになる。

(つまり、厳格な一神教からすると、人間を駆り立てたり見下ろし見守るような外部的な何かがあると信じるが、非有神論はすべてが自分次第、自分起点だと考える、ということかな。)

だがこれらは争う必要はないと筆者は考える。
ただ、ここでもう一つの問題が持ち上がる。
東洋(中国とインド)と、西洋の宗教的態度の基本的な違いについて。それぞれが対立(反する)ことを主張している。

西洋:アリストテレス論理学 「同一律、矛盾律、排中律」

「同じものが、同時に、そして同じ事情のものとで、同じものに属し、かつ属さないということは不可能である。」
(つまり、「悪は正義でもある」とか「表でないのに裏でもないということはない」ということ。)
現在、この考え方は私達の思考習慣に深く浸透している。

東洋:逆説論理学

中国やインドの思想、ヘラクレイトス、弁証法…ヘーゲルやマルクス
老子「厳密に真実である言葉は逆説的であるように見える。」(道教)

莊子「一つであるものは一つである。一つでないものもまた一つである。」
ヘラクレイトス「反対物の葛藤こそがあらゆる存在の基盤である」

道教・インド・ソクラテス「思考が達しうる最高の段階は、自分の無知を知ることである。」

※ただしバラモン哲学の、物事は2つの対立からなるとする「二元論」とは違う。

これは、最高な神には名前がつけられない…ということと同じである。
ヴェーダンタ哲学「思考は矛盾においてしか世界を知覚できない」。

この西洋のアリストテレス論理学と東洋の逆説論理学は、神への外という概念において重要な差異を持ってる。

アリストテレス論理学 : 正しい行いよりも「神を信じる」ことが大切

最高の心理は「正しい思考のうちにある」。行為も大事だが、思考のほうがより強調された。

思考によって真理を発見できるという発想は、教養と科学を生んだ。
そしてカトリック教会と原子力の発見を生んだのだ。

逆洗論理学 : 正しい信仰よりも「正しい行い」が大切

思考はただ、思考によって究極の答えを知ることは出来ない、ということを人に教えるだけだ…。
バラモン教・仏教・道教・ユダヤ教、、みんな「正しい行い」が重視される。

スピノザ・マルクス・フロイトもそうだ。

スピノザ「正しい信仰よりも正しい生き方」
マルクス「哲学者たちは世界をさまざまに説明してきたが、必要なのは世界を変えることだ。」 カッコいい。。。。

つまり、重要なのは「思考よりも行為」。
これが生む2つの物がある。
①「寛容」: 正しい思考が究極の真理ではない、…したがって…自分とはちがう原理に到達したほかの人々と争う理由は無い!
② 教養や科学を発展させることよりも、むしろ人間を変える事が重要

こうして寛容と、自己変革のための努力を生んだ。

こうしてみると、親への愛と神への愛とは重要な類似点がある。
最初に無償の愛で包み込んでくれる母親を求め、次に思考と行為を導いていくれる父親を求め、そしてどちらも自分のものとなり自由になる。
人類の歴史においても同じ発達過程が見られる。

神への愛と、人間にたいする愛は似通っている。
・・・さらに言えば、他人にたいする愛は、直接には家族関係に根ざしているが、結局は、その人が生きている社会の構造によって決定される。

権威へ服従を強いるような社会構造なら、人々が抱く神の観念は幼児的になるだろう。

【第3章】資本主義が生んだもの

愛する能力は、社会のあり方から影響を受ける。

現代西洋社会、つまり資本主義社会は、「市場において需要がなければ、なんの経済価値もない」という価値観。
発達するにつれて「蓄積」と「集中」の傾向を強め、組織は巨大化し、個人は個性を失ってゆく。

現代人は商品と化し、自分の生命力をまるで投資のように感じている。
人間関係は、本質的に、疎外されたロボットどうしの関係になっている。
オルダス・ハックスリー「すばらしき新世界」で描かれているような、物にも性欲にも満たさているが、自分というものがない…という人間像に近い。
現代人の「楽しい」は、手に入れ消費すること…交換と消費に適応していて、精神的なものまでも、交換と消費の対象となってる。

「結婚の理想は円滑に機能するチーム」という概念も、こうした社会的性格に呼応している。
この発想は「滞りなく役目を果たす労働者」という考えと変わらない。
お互いがこうして過ごせるならぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままである。

そういえば、「結婚を損得で考えるな」(結婚なんて、損得で考えたら損しかない。それでもそばにいたい、なにかしてあげたいと思える人と結婚しなさい。)とアドバイスしてくれた人がいる。
まさに「結婚とはよいチーム」的に、損得で考えがちだった人間なので非常に衝撃を受けたが、ここで言っていることと合致しているよな。

[十九世紀]愛とは生理現象の結果である

ちなみに、第1次世界大戦後の数年間は、「性的満足こそが愛の条件(愛は性的快楽から生まれる子供である)」という考えが流行った。
当時の「正しい技術を用いさえすれば、工業生産における技術的な問題だけでなく、人間の問題全般をも解決できる」という思い込みと一致していたのだ。

もちろん、「正しいセックスのテクニックを知れば性的満足も愛も得られる」というのは精神分析治療の資料をみればあきらかだが、そもそもこの考え方はフロイトの影響を受けている。

フロイト「愛は基本的に性的現象である。合理的現象としての愛、成熟の最高の達成としての愛など存在しません。」

フロイトの思想が流行ったのは第1次世界大戦後の時代精神と合致している。
一、ヴィクトリア時代の厳格な性道徳に対する反動
一、資本主義が持つ人間観(人間は本来競争心が強く、他の人間に対する敵意に溢れている。すなわち男は実はすべての女を性的に征服したいという欲望によって衝き動かされている)
一、十九世紀的な唯物論(あらゆる心理的現象のもとは生理現象の中にある)

[二十世紀]愛とはチームワークである

H・S・サリヴァンは、フロイトと違い性と愛を厳密に区別している。

しかし彼が定義している愛というのは、「二倍になった利己主義」に過ぎない…。
それぞれの利益を出しあって、敵意にみちて疎外された世界にたいして結束している二人のことである。

神経症的な愛

「恋人たち」の一方あるいは両方が、親の像への執着を捨てきれず、かつて父親あるいは母親に向けていた感情・期待・恐れを、大人になってから、愛する人のうえに転移することである。

例えば、母親への幼児的執着から抜け出ていない男は、女性が
・常に相手のことを称賛しなかったり
・自分の生活を大事にしたいと言い張ったり
・私だって愛され保護されたいと言い出したり
・男の浮気を多目に見なかったりすると
男は深く傷つき、失望し、「あいつは俺のことを愛していない。わがままで、高圧的だ」と考えて自分の感情を正当化する。

この手の男性は「自分の優しい行動や、相手の気に入られたいという願望を、本物の愛と混同している」ので、ひどく不当に扱われているという結論に達する。

これが申告なケースになると、母親の腕に抱かれたいとかおっぱいを吸いたいとかいうのを通り越して、胎内に戻りたい(人生の舞台から降りる)ことさえある。
この種の固着は、子どもを呑み込もうとする破壊的な母親──ときには愛の名において、ときには義務の名において、いつまでも子どもを自分の中に閉じ込めておこうとする──をもった場合に起きる。

また、父親に執着している場合は、今度は「父親像」として選んだ人から称賛を得られるかどうかで上がったり下がったりする。
権威主義的な価値観で育っているため、誠実で、信頼でき、何事にも熱心で社会的に成功を収めることもあるが、女性にたいしては心を開くことがなく、いつまでもよそよそしい。

また、「たがいに愛し合っていないが、抑制心がつよいために、喧嘩したり、不満を顔にあらわしたりしない両親」の場合、家庭内は「きちんとしている」が心から触れ合う事ができないので当惑と不安を覚え、子どもは自分の殻に閉じこもり、白昼夢にふけるようになり、その後の愛情関係においてもそうした態度を保ち続ける。

それから「偶像崇拝的な愛」。これはフィクションでは「大恋愛」として描かれることが多いが、これはしっかりとした自意識をもつに至らなかった場合に、愛する人を「偶像化」してしまうパターン。

そして映画やラブソングなどのラブストーリーに感情に入するタイプの、空想の中で経験する「センチメンタルな愛」。「センチメンタルな愛」はには、空想のほか「時間的に抽象化する」面もある。「実際にはちょっと飽きてきてるけど、いつか最高の愛の瞬間が訪れるだろう」と夢見ている場合など。

自分を棚に上げて「愛する人」の欠点や弱点に関心を注ぐという「投射」もある。
二人がともにこういうタイプだと相互投射になってしまい、互いが自分の問題に気づかないまま相手を矯正しようとしたり罰したりする。

「投射」を子どもに行う場合もある。
自分の人生に意味を見いだせない人は、そのかわりに子どもの人生に意味を見出そうとする。しかし、それでは自分の人生にも失敗するし、それだけでなく、子どもにも誤った人生を怒らせることになる。
なぜ自分の人生に失敗するかといえば、それは、いかに生きるかという問題は、本人によってしか解決できず、身代わりを使うわけにはゆかないからだ。
どうして子どもにも誤った人生を送らせることになるかといえば、そういう人は、子どもが自分で答えを見出そうとしたときに導いてやれるだけの資質に欠けるからだ。
ついでに、「愛があれば絶対に対立は起こらない」という誤りもよく見受けられる。

そもそも「対立」は互いに良くない結果しかもたらさない破壊的な交わりだと勘違いしているからだ。
もともと解決などありえないような些細な表面的なことがらで、仲たがいしているにすぎない。
二人の人間のあいだに起きる真の対立、すなわち、何かを隠蔽したり投射したりするものではなく、内的現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破壊的ではない。

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、初めて愛が生まれる。(中略)そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。調和があるのか対立があるのか、喜びがあるのか悲しみがあるかなどといったことは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。
最近になって宗教が復活しているなどということは無い。
逆に偶像崇拝に後退していると言える。

現代人はむしろ三歳児に近い。助けが必要になると、泣いて父親を呼ぶが、そうでないときは一人で満足して遊んでいる。
自分を商品化してしまった現代人は、神をビジネスパートナーとして捉えるようにすらなってしまった。
愛と正義と真実において神と一つになりなさいということではなく、社会的に成功を収めるための手段として神への信仰を勧めているのだ。

【第4章】愛を習得するには

この章は、全文引用したいくらいです。
儀式として毎月読んだほうがいいんじゃないか、と思うほど。

まず、「これすれば愛することができるようになるよ」というハウツーなどは無いです。
自分で経験(修練)を積まねばならない。
ただ、前提条件、愛の技術へのアプローチはいくつか提示できる。

【1】規律

気分が乗っているときにだけやるのでは、絶対に上達しない。
これは、毎日一定の時間練習するといった規律だけではなく、生活全般における規律も含まれる
重要なのは、外から押し付けられた規則か何かのように起立の練習を積むのではなく、規律が自分自身の表現となり、楽しいと感じられ、ある種の行動にすこしずつ慣れてゆき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようにすること。

【2】集中

本も読まず、ラジオも聞かず、タバコも吸わず、酒も飲まずに、一人でじっとしていられるようになること。
一人きりでいられるということでもある。現代ではこれは難しいが、ごく簡単な練習で鍛えてみよう。
例えば、
リラックスして椅子にすわり、眼を閉じ、眼の前に白いスクリーンを見るようにし、じゃましてくる映像や想念をすべて追い払って、自然に呼吸をする。(中略)そこからさらに、「私」を感じとれるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じるのだ。
これを毎朝・毎晩、20分以上続けるようにすると良いだろう。(長いな~!)

また、何をするにも「その時自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければいけない」。
じっさい、この時何をしているかというのはあまり問題ではない。しかし集中すれば、これまでとは全く違って見えてくる。

他人との関係においてもそうだ。
上っ面だけのくだらない会話を避ける必要がある。
他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。
集中するとは、いまここで、全身で現在を生きることである。
いま何かをやっているあいだは、次にやることは考えない。

【3】忍耐

性急に結果を求める人は絶対に技術を身につけることはできない。
現在の産業システム全体が、速さを求めていて、人間の価値もますます経済的価値によって決定されるようになっている。
現代人は、何でもすばやくやらないと、何かを、つまり時間を、ムダにしているような気になる。

【4】最高の関心を抱く

生活のあらゆる場面において規律と集中力と忍耐の練習を積まなければならない。

集中力を身につけるには、「自分にたいして敏感」にならなければいけない。
これは例えば、車を運転しているときには車の不調はすぐに気付くとか、母親が子どもの変化にすぐに気づくように、アンテナを張っている状態である。(というより、自己を拡張しているイメージかなあ。)

自分自身にたいして敏感になるというのは、ついネガティブな状況に陥ったら、「何が起きたのだろう」「なぜ私は気分が滅入るのか」と自問し、手近な理屈で安易に合理化せず、内なる声に耳をかたむけること。
この感受性が、フィジカルな体の不調よりわかりにくいのは、そもそも正常な状態、つまり「完成された健康な人間の精神」というものがどういうものかを知らない場合が多いから。

本来、教師は人を愛することのできる成熟した人間として、人間としてのあるべき姿を伝えることだ。
(すんごくハードルが高いが、ここで言う「教師」というのは、学校の教師一人ひとりというよりは、多くの人々が手本にすべき象徴的な人物…、「傑出した精神的特質をそなえた人がもっとも高く評価された」人とかを指していると思われる。もちろん、教師一人ひとり、大人一人ひとりが、こうした人間を目指すべきだということには違いないだろうが…。)

現在の資本主義社会、いや、共産主義であっても、高い精神性をそなえた人物がみんなから称賛され模倣されるということがない。

でも、絶望的というわけでもない。
たとえば「アルバート・シュヴァイツァー」といった人物が有名になったりもしたし、偉大な文学や芸術作品もある。
ただし、これらは知の伝達にもとづいているのではなく、ある種の人間的特徴にもとづいているのであるから、次の世代にそうした特徴がなくなるようなことがあれば、文明は崩壊してしまうだろう

ここまでは、技術の修練に必要なことを述べたまで。
愛を達成するための基本条件は、「ナルシシズムの克服」である。

ナルシシズムの対極にあるのが「客観性」。
精神病者はこの客観性が欠如しているものだが、じつはほとんどの人が多かれ少なかれ狂っていて、程度の差はあれど(起きていても)眠っているから、世界を客観的に見ることができない。

客観的に考える能力、それが「理性」である。
理性の基盤となる感情面の姿勢が「謙虚さ」である。
子どものときに抱いていた全知全能への夢から覚め、謙虚さを身につけたときにはじめて、自分の理性をはたらかせることができ、客観的にものを見ることができるようになる。

この客観性は、「愛する人に対しては客観的に、それ以外の人にたいしてはどうでもいいや」などと考えていては、結局誰に対しても客観的になれない。

また、愛の技術の習練には「信じる」このとの習練も必要である。

【根拠のない信念】
ある権威、あるいは多数の人びとがそう言っているからというそれだけの理由で、何かを真理として受け入れること
何かをやみくもに信じること

【理にかなった信念】【根拠あるヴィジョン】
自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信
大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考とにもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざすもの
知性面や感情面での生産的な活動に根ざしていて、合理的思考の重要な構成要素にもなる

人間関係においても、信念は重要な特質。

「他人を信じる」= その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信すること & 他人の可能性を信じること
「自分を信じる」= 自分のなかに、一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する
自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。

自分自身の愛にたいする信念:自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」こと
「他人を信じる」、ということを突き詰めると「人類を信じる」ということになる。

【理にかなった信念】の根底にあるのは、生産性。すでにある権力に屈伏することではない。
そして勇気もいる。
安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。
信念と勇気に関しては、四六時中習練を積むことができる。
自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかを詳しく調べる。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。
そして、絶対に欠かすことのできない姿勢が最後に、もう一つある。

それは「能動性」である。

人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。
そして、そのためには、生活の他の多くの面でも生産的かつ能動的でなければならない。

身内にたいする愛と、赤の他人にたいする愛とのあいだにも、「分業」はありえない。
それどころか、赤の他人を愛することができなければ、身内を愛することはできない。

資本主義の原理と、愛の原理とは両立しないことは確かだが、だからといって愛の習練が積めないということはない。

ただ、これは個人的な面だけでなく、社会的な面と密接につながっているから、愛が社会的な現象になるためには、社会構造を根本から変えなければいけない、と思うだろう。

愛するということ 新訳版
エーリッヒ・フロム (著), Erich Fromm (原名), 鈴木 晶 (翻訳)