北野 唯我 / 天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ
バズっていたブログ記事を読みました。
なるほどと思いつつ、もう少し詳細を理解したいなと思い書籍を購入。
「90分で読める」と帯に書いてあるとおり本当に1時間くらいで読めますが、かなり大事なこと書いてあると思います。
読みやすすぎて、読んだら気持ちよくなって分かった気になってしまいそうですが、「大事なことは細部に宿る」のが最近気をつけていることなので、覚えておきたいことなどをまとめておきます。
北野さんのブログ記事はこちら→「http://yuiga-k.hatenablog.com/entry/2018/02/23/113000」
アート(芸術)・サイエンス(化学)・クラフト(モノづくり)。
創造性(少数)・再現性・共感性(多数)。
これだけでなんとなく分かったような気になりますが一応引用しておきます。
組織には天才が率いる時代がある。
その時代が終われば、次は秀才が率いる時代が来る。
そのとき、組織は凡人が天才を管理する時代に突入する。
そして、天才は死んでイノベーションを起こせなくなる。
軸:その人が「価値」を判断する上で、前提となるもの。絶対的。
評価:軸に基づいて「Good」「Bad」を評価すること。相対的。
評価は相対的なので(議論等をすれば)変わる可能性があるが、軸は絶対的なものなので変わることがない。だからこの「軸が違う」理由で起こっている断絶は永遠に交わらない。
だが、創造性は定義できないから適切なKPIがない。
「社会からの反発の量」で実は間接的に測れるが、特に大企業では多くの凡人によって支えられているから、そんなものを指標にできるわけがない。だから大企業では破壊的イノベーションを起こせない。
(また、凡人は共感性が高くかつ数が多いためオセロのようにみんなで手のひらクルーをすることがある。)
アートは説明能力が低く、サイエンスは説明能力が非常に高いので、「どちらがいいか」で戦わせては(直接ディベートさせては)いけない。絶対にサイエンスが勝つから。
説明というのは、行き着くところ、目的に基づいた論理と、多数決しかない。
「なぜそれをするんですか?」に筋を通すには本質的に2つの方法論しかない。
「なぜいいかを説明する」という理屈か、「みんながやっているからやる」という共感か。
「みんなが良いと信じていること」は、それだけで破壊的なパワーがある。
だが、特に秀才はこれを嫌う。ロジックもなく、アホな人たちが騙されているようにみえるから。
共感性(凡人)の反発は、「見たことないからなんとなく気持ち悪い」のような浅い反発であることが多い。
数が多いから強く見えがちだが、これはひっくり返しやすい。
狭くて深い支持が1~2割、残りが広くて浅い反発なら、破壊的イノベーションになる可能性がある。
かつ、良かれと思って天才を指導する(が天才からすると好奇心を殺す存在に映る)「先生」とでも呼びたい秀才タイプを担任から外す必要がある。
人生は配られたカード(才能)で勝負するしかない。
配られたカードを世の中に出し続けていれば、過去最高の自分に出会える。
「才能は磨かれていく」から。
凡人が「最強の実行者」を巻き込むキラーワードは、「あなたならどうしますか?教えて下さい」。軸を変えてしまうということ。
それぞれのタイプの軸が違う、というのは、根源的に主語が違う、ということ。
主語のタイプはこれだけある↓
Y:相手(You)あの人はどう思うか?どう感じるか?
W:家族や仲間(We)チームがどう感じるか、どうあれば幸せなのか?
R:善悪(Right or Wrong)組織にとっての利益、明文化されたルールなどの善悪で物事を見る
Y:認識(人々は世界をどう認識するか)
天才は物理の世界に生き、秀才は法律の世界に生きる。
これはサイエンス(秀才)が良質になるか悪質になるかの決め手になる。
そもそも「科学」は失敗しまくってようやく「それっぽい真実」を見つける。
科学の良さは「ミスできること」。使いこなすには高い素養が求められるということも含め、「失敗を許さない」ような人が分かったつもりになって使ってはいけない。
失敗したことない秀才が、組織の上に立ち、サイエンスを振りかざしたとき、天才を殺してしまう。
「サイレントキラー」は、そういう人である可能性がある。
そして、天才が生み出したものは、エリートスーパーマンと秀才によって「再現性」をもたらされ、最強の実行者を通じて、人々に「共感」されていく。こうやって世界は進んでいく。
凡人の最強の武器は「自らの言葉」。
迷ったら「小学生でも使うかどうか」で考える。自らのありのままを白状する。そしたら人は必ず動く。オセロの石はひっくり返る。
人の才能というのは、ゼロか100かではない。
ほとんどの人は「創造性:再現性:共感性」を少しずつ持っている。その割合が大きいところに概ねカテゴリしているだけ。
多くの人は幼少期の教育などによって創造性の部分を殺してしまっている。例えばこれが「ストッパー」。
世の中だけではなく自分自身の中でも、何かを思いついた(天才)あと、社会的な基準やロジックで良いか悪いかを判断し(秀才)、最後に恥ずかしいとか周りにどう思われるかと感情で判断する(凡人)、というプロセスを経ている。
才能を活かすには、才能があるかないかより前に「ストッパーとなる存在」を取り除くことのほうがはるかに大事。
つまり天才とは、「自分に合った武器」を手にした上で「ストッパー」を外した人間のこと。
今の企業に必要なのは「サイエンスを正しい方向で扱える高い教養を持った秀才」と「共感の神」と「天才」の3者。
創業者と、それを軌道に乗せて拡大するナンバー2も全然役割が違う。組織も変わる。
経済成長期真っ只中のビジネスのやり方や生き方と、ある程度成熟した社会でのビジネスのやり方や生き方というのはぜんぜん違うよね、というのは、才能というよりかは社会的背景(社会全体の「ストッパーが小さかった/少なかった/なかった」)によるものだと思うけど、結果を分類すれば確かに「創造性のフェーズ」から「再現性のフェーズ」になっているわけですね。
筆者のあとがきはシビレます。
勇気をもらえる良本!
なるほどと思いつつ、もう少し詳細を理解したいなと思い書籍を購入。
「90分で読める」と帯に書いてあるとおり本当に1時間くらいで読めますが、かなり大事なこと書いてあると思います。
読みやすすぎて、読んだら気持ちよくなって分かった気になってしまいそうですが、「大事なことは細部に宿る」のが最近気をつけていることなので、覚えておきたいことなどをまとめておきます。
天才・秀才・凡人
この区分は、ブログにも書いてあるとおり。北野さんのブログ記事はこちら→「http://yuiga-k.hatenablog.com/entry/2018/02/23/113000」
アート(芸術)・サイエンス(化学)・クラフト(モノづくり)。
創造性(少数)・再現性・共感性(多数)。
これだけでなんとなく分かったような気になりますが一応引用しておきます。
- 独創的な考えや着眼点を持ち、人々が思いつかないプロセスで物事を進められる人
- 論理的に物事を考え、システムや数字、秩序を大事にし、堅実に物事を進められる人
- 感情やその場の空気を敏感に読み、相手の反応を予測しながら動ける人
組織には天才が率いる時代がある。
その時代が終われば、次は秀才が率いる時代が来る。
そのとき、組織は凡人が天才を管理する時代に突入する。
そして、天才は死んでイノベーションを起こせなくなる。
軸の違い
コミュニケーションの断絶は、「軸と評価」の2つで起こりうる。軸:その人が「価値」を判断する上で、前提となるもの。絶対的。
評価:軸に基づいて「Good」「Bad」を評価すること。相対的。
評価は相対的なので(議論等をすれば)変わる可能性があるが、軸は絶対的なものなので変わることがない。だからこの「軸が違う」理由で起こっている断絶は永遠に交わらない。
説明能力
すべてのビジネスは「作って→拡大させ→金にする」というプロセスに乗り、それぞれに適したKPIは異なる。拡大は「事業KPI(CVR,LTV,訪問数等)」、金を生むフェーズは「財務上のKPI(PL,BS等)」で図る事ができる。だが、創造性は定義できないから適切なKPIがない。
「社会からの反発の量」で実は間接的に測れるが、特に大企業では多くの凡人によって支えられているから、そんなものを指標にできるわけがない。だから大企業では破壊的イノベーションを起こせない。
(また、凡人は共感性が高くかつ数が多いためオセロのようにみんなで手のひらクルーをすることがある。)
アートは説明能力が低く、サイエンスは説明能力が非常に高いので、「どちらがいいか」で戦わせては(直接ディベートさせては)いけない。絶対にサイエンスが勝つから。
説明というのは、行き着くところ、目的に基づいた論理と、多数決しかない。
「なぜそれをするんですか?」に筋を通すには本質的に2つの方法論しかない。
「なぜいいかを説明する」という理屈か、「みんながやっているからやる」という共感か。
「みんなが良いと信じていること」は、それだけで破壊的なパワーがある。
だが、特に秀才はこれを嫌う。ロジックもなく、アホな人たちが騙されているようにみえるから。
質と量
反発と賛成には「質」と「量」がある。共感性(凡人)の反発は、「見たことないからなんとなく気持ち悪い」のような浅い反発であることが多い。
数が多いから強く見えがちだが、これはひっくり返しやすい。
狭くて深い支持が1~2割、残りが広くて浅い反発なら、破壊的イノベーションになる可能性がある。
飽き
革新的なイノベーションとは、「組織の飽き」をモチベーションにした、「世の中の余白」に対する天才の指摘によって生まれる。つまり天才と飽きが共存した組織で起きる。かつ、良かれと思って天才を指導する(が天才からすると好奇心を殺す存在に映る)「先生」とでも呼びたい秀才タイプを担任から外す必要がある。
人生は配られたカード(才能)で勝負するしかない。
配られたカードを世の中に出し続けていれば、過去最高の自分に出会える。
「才能は磨かれていく」から。
アンバサダー(病める天才/エリートスーパーマン/最強の実行者)
この3タイプは、それぞれ「天才×凡人」、「天才×秀才」、「秀才×凡人」という習性を併せ持っている。だからそれぞれの特性を持ち、そして軸を理解できる。「もし組織の中でコミュニケーションがうまく行かないとしたら、相手のパターンと自分のパターンをつないでくれる人物を探すんや。」
凡人が「最強の実行者」を巻き込むキラーワードは、「あなたならどうしますか?教えて下さい」。軸を変えてしまうということ。
それぞれのタイプの軸が違う、というのは、根源的に主語が違う、ということ。
主語のタイプはこれだけある↓
凡人に多い:気持ちいいか、気持ち悪いか
I:自分(I) 自分がどう思うか?自分はどうしたいか?Y:相手(You)あの人はどう思うか?どう感じるか?
W:家族や仲間(We)チームがどう感じるか、どうあれば幸せなのか?
秀才に多い:良いか悪いか
N:知識(Knowledge) 自分が知っていること、経験していることを軸にするR:善悪(Right or Wrong)組織にとっての利益、明文化されたルールなどの善悪で物事を見る
天才に多い:宇宙関連と親和性が高い
X:存在(世界は何で出来ているか)Y:認識(人々は世界をどう認識するか)
天才は物理の世界に生き、秀才は法律の世界に生きる。
悪質なサイエンスと良質なサイエンス
「失敗を許すためにサイエンスを使うのか、失敗しないためにサイエンスを使うのか」これはサイエンス(秀才)が良質になるか悪質になるかの決め手になる。
そもそも「科学」は失敗しまくってようやく「それっぽい真実」を見つける。
科学の良さは「ミスできること」。使いこなすには高い素養が求められるということも含め、「失敗を許さない」ような人が分かったつもりになって使ってはいけない。
失敗したことない秀才が、組織の上に立ち、サイエンスを振りかざしたとき、天才を殺してしまう。
「サイレントキラー」は、そういう人である可能性がある。
共感の神
「あまりに共感性が高くて、誰が天才かを見極められる(凡)人」≒「根回しおじさん」天才は、共感の神によって支えられ、創作活動ができる。
そして、天才が生み出したものは、エリートスーパーマンと秀才によって「再現性」をもたらされ、最強の実行者を通じて、人々に「共感」されていく。こうやって世界は進んでいく。
凡人の最強の武器は「自らの言葉」。
迷ったら「小学生でも使うかどうか」で考える。自らのありのままを白状する。そしたら人は必ず動く。オセロの石はひっくり返る。
「武器」と「ストッパー」
自分の才能を最も表現しやすい「方法」が、「武器」。- 創造性と相性のいい武器:アート、起業、エンジニアリング、文学、音楽、エンターテイメント
- 再現性と相性のいい武器:サイエンス、組織、ルール、マネジメント、数学、編集、書面、法律
- 共感性と相性のいい武器:言葉、マーケティング、SNS、写真、対話、地域
人の才能というのは、ゼロか100かではない。
ほとんどの人は「創造性:再現性:共感性」を少しずつ持っている。その割合が大きいところに概ねカテゴリしているだけ。
多くの人は幼少期の教育などによって創造性の部分を殺してしまっている。例えばこれが「ストッパー」。
世の中だけではなく自分自身の中でも、何かを思いついた(天才)あと、社会的な基準やロジックで良いか悪いかを判断し(秀才)、最後に恥ずかしいとか周りにどう思われるかと感情で判断する(凡人)、というプロセスを経ている。
才能を活かすには、才能があるかないかより前に「ストッパーとなる存在」を取り除くことのほうがはるかに大事。
つまり天才とは、「自分に合った武器」を手にした上で「ストッパー」を外した人間のこと。
筆者の想い・日本のフェーズも変わっている
日本は高度成長期の「創造性フェーズ」の天才たちから、秀才たちの「再現性のフェーズ」にバトンが渡った。つまり「秀才が天才をどう扱うか」によって組織の運命が決まる時代でもある。今の企業に必要なのは「サイエンスを正しい方向で扱える高い教養を持った秀才」と「共感の神」と「天才」の3者。
創業者と、それを軌道に乗せて拡大するナンバー2も全然役割が違う。組織も変わる。
経済成長期真っ只中のビジネスのやり方や生き方と、ある程度成熟した社会でのビジネスのやり方や生き方というのはぜんぜん違うよね、というのは、才能というよりかは社会的背景(社会全体の「ストッパーが小さかった/少なかった/なかった」)によるものだと思うけど、結果を分類すれば確かに「創造性のフェーズ」から「再現性のフェーズ」になっているわけですね。
筆者のあとがきはシビレます。
「なぜ、この本を書いたのか?」と問われたら、私はこう答えます。
「人の可能性を阻害するものに、憤りを感じるから」です。
勇気をもらえる良本!