三浦綾子 / 氷点・続氷点

2024-02-07名作, novel 小説




偶然、先日北海道旭川に行った際に同行者からおすすめされて寄った「三浦綾子記念文学館」にて、三浦綾子という作家を初めて知り、その代表作となる本作に興味を持ったのがきっかけです。

初版はなんと1965年!(入選が1963年、連載は1964年頃) 50年以上も前、大阪万博が決定した頃ですね。
それ以後、何度も何度もドラマ化されているという名作。

ところで私は小説はあまり読まないのですが、名作だとか古典だとか言われている作品は読むことがあります。
本作はやはりその括りで手に取った本と言えるのですが、思った以上に感動的でした。
処女作である氷点と、その数年後に書かれた「続氷点」は別タイトルですが、個人的にはこれはセットで真骨頂と感じるのでまとめて書きます。

ということで、少しだけ連載当時を振り返りつつ、感想を書き留めておきます。
ネタバレありですので、未読の方はご注意。

未読の方は、Kindleで序盤(といっても上巻の半分)を無料で読めますのでぜひ。
小学館電子全集 特別限定無料版 『三浦綾子 電子全集 氷点』 Kindle版
三浦綾子 (著)

「氷点」の結末

あらすじは、旭川に住む辻口夫妻は冒頭で幼い娘を誰かに殺されてしまいますが、その後迎え入れた養女はなんと娘を殺した犯人の娘。なぜその娘を迎え入れることになったのか、そして家族としてやっていく中でのそれぞれの葛藤。それらを描きながら、衝撃的なラストが待っている。

と、もうこれだけでお腹いっぱいです。「ドロドロの昼ドラか~…」という感じがしますが、返して言えば昼ドラとしては完璧な設定なのだと思うんですよね。
読後時も思ったのですが、オペラやミュージカルの名作のように「一回は自分で(脚本を)やってみたい」と思わせる、素晴らしい設定とあらすじなのだと思います。


さて、本書の出版は1965年ですが、物語の始まりは1946年@旭川です。
まさに戦後であり、天皇が人間宣言したとか東京裁判やってますといったような、そういう年なんですよ。
辻口夫妻がいわゆる上流であるせいか、あまり本書の中では戦争による諸々が強調されることはありませんが、人々が生きていく(稼ぐ)のは大変である、というシーンは多く登場します。

面白いのは、作中で1946年に夫妻が娘を殺されて養女(陽子)を迎え、物語の終盤で陽子は17歳になっていますので、1963年!
つまり本書が執筆された実際の時間軸に、高校生になった陽子は生きている、というリアルタイム性を持って描かれています。
実際に旭川のあらゆるスポットが本作中に登場していたりと、かなりリアリティのある舞台設定(というかリアルをそのまま舞台にしてある)です。途中で実際に起きた海難事故(洞爺丸事故)に登場人物を絡ませたりなどもしている。
新聞連載するような小説としてはあまり珍しいことではないのかも? という気もしますが、そういう小説を読まないのでとても新鮮に感じました。

私は作品を読む前に見本林を見てきた状態だったわけで、その景色を思い出しながら読んだので本当に臨場感あふれる読書体験ができました。
ドラマを先に見た、小説を先に読んだという方も、ぜひ旭川(見本林)に訪れると楽しいと思います。


夫妻は絵に書いたようなドロドロ夫妻なのですが、その実子である兄の徹と、養女として貰われてきた陽子、この二人は優秀で素直でいい子です。陽子にアプローチしてくる北原に至っては出来杉くん。コントラストが激しいよね。

物語は、辻口夫妻の自分勝手な行動に焦点があたる前半、そして「継子いじめに明るく耐え抜く健気で美しい陽子」を描く後半と続き、ラストシーンの「陽子の自殺」へと続きます。
この自殺、そしてその理由「氷点」、これはもうぐっときましたね…。
陽子の「遺書」が本当によいので、引用します。


今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができましたのは、自分は決して悪くはないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたからでした。

一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。
私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。

この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気も致します。

今はもう、私が誰の娘であるかということは問題ではありません。たとえ、殺人犯の娘でないとしても、父方の親、またその親、母方の親、そのまた親とたぐっていけば、悪いことをした人が一人や二人必ずいることでしょう。
自分の中に一滴の悪も見たくなかった生意気な私は、罪ある者であるという事実に耐えて生きては行けなくなったのです。

キリスト教における「原罪」がテーマである、とは色々なところで解説されているのですが、キリスト教に明るくない私もこのラストにはぐっときました。

現代においては、「陽子自身は何も悪いことしてないから理解不能」という感想が出てきそうですが、おそらくここで大事なのって、血縁のある人が罪を犯したかどうかじゃないわけですよね。
先祖が悪いことしてたかどうかとかじゃなくて、「自分は絶対に正しい」という概念自体があまりよろしくない思い込みである、ということなんだと思います。

陽子が自殺したくなった気持ちに共感することは流石に困難ですが、「唯一絶対正しいはずの自分」が崩れていく感覚、だから自分は形を保ってはいられないのだという絶望は、なんだか分かる気がします。
そういえば三体では楊冬が「絶対正しいと思っていた物理法則」が崩れて自死したわけで、構図が似てますね。


「続氷点」の結末

続編を待望する声におされて執筆された「続」。
こちらは昼ドラ的な「氷点」よりも、落ちついた内容です。

「氷点」のテーマが「原罪」だとすると、「続氷点」のテーマは「ゆるし」だということで、「氷点」で回収されなさすぎた周囲の諸々の話とか、なんとかギリギリ助かった陽子やその家族はどうなっていくのか、ということを深めていく作品です。
「氷点」のラストで、実は陽子は殺人犯の娘ではなかったということが明らかになっていますので、それを受けての展開も見どころです。

登場人物として、本当の(殺人犯の)娘である「順子」と、陽子の本当の母親である「恵子」とその家族が登場。
順子ちゃんはすでに葛藤を終えた後ということで終始すっきりしたキャラクターでした。
恵子はわりと普通の人でしたね。浮気したことのある美しい未亡人…っぽい雰囲気でした(全く未亡人じゃないけど)。

恵子の息子である達哉は完全なるマザコンであり、陽子と恵子の謎を解き明かしたい!と爆走するキャラで、物語をずっと一人で展開させてくれました。
強引じゃないと話が進まないからね…。

そしてラストは「燃える流氷」という、なんとも脳裏にインパクトのある、またも爽快なシーンです。

網走の流氷に陽が差して「流氷が燃える!」と、神の存在を感じた陽子。
広大な自然を前に「何と人間は小さな存在であろう」と思うのはよくある感覚かと思いますが、そこに神の存在を感じるかどうかは人によると思います。しかし赤く染まった雄大な流氷をイメージして、なんだか分かる気になるわけです。

特にここの最終章はキリスト教っぽい話が多いのですが、個人的にはここが「なるほどなぁ」と思った箇所。

あざやかな焔の色を見つめながら、陽子は、いまこそ人間の罪を真にゆるし得る神のあることを思った。
神の子の聖なる生命でしか、罪はあがない得ないものであると、順子から聞いていたことが、いまは素直に信じられた。
前後で、ヨハネによる福音書八章一節から十一節までの話ということで、死刑(石打ち)であるはずの姦通罪の女を、イエスは「あなた方の中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言い、唯一その資格があるはずの自分も石打ちせず女を許した、という話が出てきてます。
これは「ゆるしを与えられるのはイエス様だけ」というよりも、「全員が罪人であるのだから、他者を石を打つ資格など誰にもない」ということなのかなと思います。
そして自らの罪はイエス様がゆるしてくださるのだから、だったら自分も石を打つのをやめなくては(恵子をゆるそう)という感じでしょうか。

シンプルに言い直せば、私はやはり「自分は絶対に正しい」と思い込んではいけないよ、という訓戒なのだと思いました。


そして私が感動したのはもう一つ。

一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである

何度か出てくるのですが、これがラストシーンの赤い流氷と「神の発見」と併せて、染み入る感じでしたね。
この時私の脳内には、「人間というものは、情報の出入りでかろうじて存在し得て自我を感じられているだけの麻袋のようなものだ」というイメージが湧きました。
情報(人間関係などをすべて含む)が入ってこないと当然ぺちゃんこ(死ぬ)し、取り込みすぎても出さなくても破裂して死ぬ。取り込ませていただいて、そして出していかないといけない。

自分という確固たるものが繋がってコミュニケーション、ではなく、そもそもコミュニケーションの結節点に自我という曖昧なものが存在しているように見えるだけ。すべての人が絶妙なバランスの蜘蛛の糸をお互いに支え合っていることでお互いが存在している、という感じ。
だから、「与えないといけない」。

歴史を勉強すると、よくも悪くも流れには抗いきれないという無常感を感じることも多いし(悲観的なわけじゃないのですが)、「世の中に自分の名前を刻みたい」的なことを言う男性の言葉になかなか共感できなかったりもするのですが、「与えたい」というより「与えないと死ぬ」という感覚にしっくりきました。

エーリッヒ・フロムも結果的に似たようなことを言っていたはず。多分。なるほどそういうことだったのか!


実は超個人的な話ですが、ちょうどこの作品を読んだ時、内定をいただいていた転職先Aと、転職先Bのどちらに行こうか、ものすごく悩んでいたのです。

悩みの軸は「自分がどうなりたいか」「何を得られるか」ということばっかりで、「Aに行ったらキャリアが不安」だとか「Bに行っても成長できないかも」だとか云々悩んでいたわけです。
大事な決断や大きな買い物とかで選択肢が色々ある時は、直感が作動しなかった場合は、評価軸を整理して点数を付けてみたりとかしてロジカルに決断していくタイプなのですが、それをいくらやっても結論が出なかった。AかBか。

でもこの一節とあのラストシーンで、「より与えられるのはAだ!」とスッと納得してしまい、もう迷いが消えていました。w

まあ、正直なところ、BではAより与えられないかと言われたらそんなこと全く分かんないわけです。どちらも期待して内定を出してくれていたし、自分もある程度やれると思ったからこそ悩んだわけですから。でもそう感じたんだからしょうがない。

これは「Aのほうが活躍できるぜ!」という自信ではなく、「自分がどうしたいなんて烏滸がましい、今の私の能力で、ものすごく謙虚に役に立とうと思うのなら」という、かなりへりくだった気持ちなんです。

そういえば、昔、ブラック企業で心身を壊しかけた時も転職活動をしましたが、同じように最初は「自分へのメリット」ばっかりで考えていた私に、友人がアドバイスしてくれて、謙虚な気持ちでやってこれたことが今のキャリアに繋がっているなとしみじみ、その時の気持ちを思い出したのでした。


キリスト教と仏教

さて、キリスト教と仏教、一神教と空の思想、まったく違うなーと昔は思っていたんです。

ですが最近は「ロジックは違うけど結論は似ているものも結構ある」と感じている。
本書を読んでまさにそれを確信しました。
(※専門書や聖書を読んだわけでもなく、解説を受けたこともなにもないのであくまで私の現在の理解です。)


まずこの「原罪」という概念、仏教の煩悩である「有身見」や「慢」にとても良く似ていると感じます。

有身見とは、「我(が)のような不変不滅の何かが自我の中核にあると、勘違いさせてしまう煩悩」
https://www.onrakuji.com/煩悩辞典/見/有身見/

慢とは、「他と自己を比較して、無根拠におごり高ぶること。」
https://www.onrakuji.com/煩悩辞典/慢/

仏教では「無我」「空」というロジックですから、アダムとイブから脈々と続く人間の業を指しそうな血脈を感じさせる「原罪」とはロジックがまったく違いますが、ものすごく雑にいえば、どちらも「自分という確固たる外界と切り離された存在がいて、さらにその自分は正しい(優れている)のだ」と大前提として思い込んでいてはいけません、ということなんじゃないでしょうか。


さらに、大衆レベルの教えとしてこちらも似ていると思います。
煩悩って、坂口尚氏の「あっかんべェ一休」での「煩悩を消し去ることなどできやしない。悟ってまた煩悩、煩悩してまた悟る! それが人間だ! それが生きるということだ!」という台詞からみるように、「完全に取り払う」ことは出来ない。
だからこそ、その境地に達したら終わり! というものではなく、日々、こつこつ、瞑想や反省をしなさいということだと思うんですよね。

これ、毎週協会に行って賛美歌を歌ったり、懺悔を推奨しているキリスト教と、やっぱり似ているところがありますよね。

輪廻転生のために(天国に行くために/地獄にいかないために)ポイント稼ぎする、的な要素も双方ある程度あると思いますが、より「驕り高ぶるな」という観点から、とっても似ていると感じたわけでした。


ついでに、仏教はより理屈っぽい人に理解しやすく、キリスト教はより人間のぬくもりを重視する人に理解しやすい、とも感じました。
大いなる自然を前に唯一の「神」という意思の存在を感じる人は、やっぱり「世界は無だ」とか言ってもピンとこないでしょうし、血脈とかを理由に説明されたほうが安心するんだと思います。
「自分や人間では到底手の及ばない大いなる領域」を、空(無)だと思うか、意思ある唯一の神(集約された概念)だと思うのかの違いというだけで、わりと体感的には似たようなものを想起しているんじゃないかな。
よく一神教との対で出てくる「八百万の神」も、「驕り高ぶるな」ということだとすると、やはりこれも似ていますよね。



それぞれのキャラクターについて

最後に、各キャラについて全く真面目じゃない思いの丈を書きます。

陰湿真面目エリート「啓造」

父「啓造」の語り口で物語が進む部分が多いためか、妻「夏枝」が絵に書いたような継母キャラだからなのか、啓造はそんなに悪人じゃないと感じる読者も結構いると思うのですが、個人的には「きっっっっっも!!!!!!」でございました。

ある意味、夏枝のほうがわかりやすくて清々しいとすら思えるような、おそらく日々が本当に真面目だからこそ「僕だって多少のことは許されるはずだ」と思ってめっちゃ陰湿なことしちゃうタイプです。
「本当に真面目」なので、さすがに読んでいて不快になることはあまりなかったのですが、陽子に優しくなったのも「異性として意識し始めたから」とかいうクソみたいな理由なのを自覚しているあたりとか、もう…きっも…って感じですね…。
もちろん啓造はちゃんと自制も自覚もしていますから何か起きることはありませんが、それでもキモかった。

その淡々としたキモさを女性である三浦綾子が描けるということろがまた恐ろしいのですが、自分の娘を性的な目で見るのってそんなにフツーだったんですかね…。
パパ活やったり、十代のアイドル追っかけたりするおっさんがたくさんいるわけなので、多くの男性にはそういう本能があるというのは理解しているのですが、自分の娘にそれ思ったら流石に犯罪感がすごいんですよ。
陽子は実子ではないわけなんですが、個人的には啓造は「陽子がもしも実子であっても同じように陽子を見ていた」ようにしか思えなかったのでこの感想です。

絵に書いたような美人な意地悪継母「夏枝」

もう夏枝は…。
本当に絵に書いたような古典的な、超美人で、器量もよくて良いところのお嬢様で、自己中で意地悪という、何の複雑性もないキャラです。笑

陽子の衣装作らず嘘ついたりとか(もちろん平気でシラを切れる)、答辞の紙を白紙にすり替えたりとか、イジメの程度もとっても低く、色恋に関しても「イケメンは皆私に首ったけじゃないとおかしい」的なことを実直に思い込んでいる、すごいメンタルの持ち主。

ただね、夏枝の語り口もあるのでよく分かるんだけど、この人、悪人…ではないわけなんですよ。
いやほぼ悪人なんですけど、ある程度ちゃんと自分を理解できていて、なんというか「思考」と「感情」のお椀がとても浅いのですぐに結論出して即行動しちゃうだけに見える。正直、深く考えはするけど…な啓造とどっこいどっこいというか、よくも悪くも夫婦だねぇ、というシーンもあるから面白いんです。
夏枝が啓造とやりあうシーンはだいたい面白いのですが、一番良かったのはやっぱり続の後半、「他の方の奥さんなら、夫にかくれて赤ちゃんを産んでもゆるせるんですのね」「でも、あなたは、自分の妻なら、他の男性と二人で話をしただけのことさえ、許せませんのね」は痛快でしたね!
「それな!!」と思わずにはいられないやりとりでした。

啓造に感じるキモさの一因はこれでもあるんですよね。
夏枝は超絶自己中で意地悪ですが、あんまりそういう不平等なことはしてないんですよね。自分が中心で、あとはメリデメでしか見てないというか、ある意味同じように接してる。別にそれがいいというわけじゃないけども。

それでも家事や料理などのいわゆる「妻の器量」的な部分はほぼ完璧のようで、作中で夏枝がそれらの手を抜いたのはルリ子が死んだ時くらいでしたよね。
それを殊更偉ぶったりもしない、というのは良妻とさえ言えるのでは。

実は私は最後まで高木が夏枝をずっと好きだったというのが腑に落ちなかったのですが、(ダメイケメンの村井はともかく、高木はある程度夏枝の自己中なところも見えていたでしょうから)、めちゃくちゃ美人で、かつ家庭内での器量は完璧だという点においてはやはり羨望を感じるのかもしれません。

おにいちゃん「徹」

徹は本当に…普通。

実際には、勉強もできて優しくて親の病院を継ぐ予定の上流で完璧男子なわけですが、本作にあっては最も普通な人間という感じでした。安全地帯というか、感情移入しやすいというか。

続氷点では徹の行動が物語を動かすことになるのですが、それも「分かる分かる」という行動だし、その後の葛藤も本当に普通で本当に良かった。
普通すぎて再定義し辛いというか、脚本上、アレンジもあまりできないキャラなのかなぁと思ったりします。

潔癖美人「陽子」

潔癖というほどじゃないかもですが、「汚れたものはそれがたとえ自分でも許しません」という視点で見ればやっぱり潔癖。

健気で素直で明るく元気で美人、いうことのない、めちゃめちゃいい子です。
いや~これをドラマでやるなら、期待の大型新人が絶対にやりたい役どころですよね。

最後に北原を選んだのは、私も最初は「足の罪悪感のせいなのか?」と思ったりしましたが、陽子は終盤で、もし辻口家に来たのが順子だったとしたらと考えて、「多分徹は、自分を愛したように順子を愛し、順子と結婚しようとしたにちがいない。」と思ってるんですよね。
自分の人生を他人が歩んでいたら、なんて歴史のIFと同じで意味のない議論なのですが、少女漫画的にはもうこれは絶対ダメです。
「私である必要はなかったんだな」、つまり、境遇や肩書に愛を感じられているんだなって解釈であり、なかなかの絶望です。

これは徹サイドからすれば「違う! 君だからこそ好きになったんだ! 別の人だったら好きになってない!」と引き止めるところですが、本作ではそうやって釈明する機会もなく、なにより陽子が「かもしれない」じゃなくて「にちがいない」って思ってるの、もう完全に終了です。

もうその時点で、徹は自分じゃなくてよいはずだと陽子は分かっているんですよ。(それが正しいかどうかはさておき陽子はそう感じた事が大事)
やはり「幼少期からずっと味方でいてくれた兄」には、兄としての愛しか抱けなかったということだと思います。

対して北原は、幼少期を知ったり一緒に過ごしたというアドバンテージもないのに、一人の人間として徹底的に陽子のためを思って行動しているんですよね。
続氷点の前半では北原の登場は少なく、陽子は結構冷たく接して時間も経っているというのに、それでも終盤のあの男気ですよ。

まあ、脚を失ったのが徹だったら「それも運命」と考えて陽子は徹と結婚したのかも、という気もしますけどね。
ここは少女漫画的に議論が盛り上がるところじゃないでしょうか。笑
(パラキスやハチクロで「そっちでよかったのか」議論をしているときと同じ気持ち。笑)


三浦綾子氏

さて、色々言いたくなるキャラはやはり辻口家の4人でした。全員コメントしてると私が寝れないのでもうやめます。

最後に作者の三浦綾子氏ですが、この方も壮絶な人生を歩まれたようです。

1922年生まれで、太平洋戦争に向かう社会で小学校教員をつとめるが疑問をいだき戦後直後に退職(24歳)。
そして若くして肺結核を発病。その際、おなじく北大出身で肺結核を患っていたクリスチャンの男性と懇意になり、自身もクリスチャンに。
しかしその男性がなくなり、その後死ぬまで添い遂げる男性と結婚。
男性の実家の小商を手伝いつつ闘病し、そして41歳ごろに朝日新聞の懸賞に「氷点」を応募して見事入選、翌年に連載。
その後も闘病しつつも旦那様に口述筆記をお願いして作品を世に出していき、77歳で死去。

いやあ本当にすごい。
北大出身という時点でもともと優秀な方だったのでしょうが、遅咲きといわれている(多分)JKローリングでさえ30歳くらいのときですよね。ハリポタ出版したの。

ほんと、自分は甘ったれてるなぁと思います。

他の作品も是非読んでみたいと思います!


ついでに今なら、kindle Limitedで続氷点は¥0です! 私も購入したのは「氷点」のほうだけでした。ラッキー。
続 氷点(上) (角川文庫) Kindle版
三浦 綾子 (著) 形式: Kindle版
続 氷点(下) (角川文庫) Kindle版
三浦 綾子 (著) 形式: Kindle版