映画「沈黙(サイレンス)」を観ながら学ぶ、幕府が残酷な弾圧を行ったワケ

作品から学ぶシリーズ, 史実に基づく・史実がベース, 考察, 名作, 洋画

1630年前後の日本で、弾圧されたキリシタンの姿を描いた傑作です。
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さて映画をみて、「なぜ幕府は残酷な弾圧を行ったのか」がとても気になったんですよね。
作品からは逸れますが、年表を振り返りながら見ていきたいと思います。


歴史を振り返る(なぜ幕府は残酷な弾圧を行ったのか?)

少し遡りますが、まず日本が世界と繋がりだした時期から見ておきましょう。

大航海時代

ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが西廻りでまずアフリカ大陸の喜望峰にたどり着いたのが、1488年。
そしてスペイン支援でコロンブスがアメリカ大陸に到達したのが、1492年。
バスコ・ダ・ガマがインドに到達したのは、1498年。
ヨーロッパから左回りで世界一周を成し遂げたのがマゼランで、これは1520年頃です。
いわゆる大航海時代ですね。

ポルトガルは、インドのカリカット、マレー半島のマラッカ、中国のマカオ、フィリピンのマニラと次々と東に向かって占領(!)して貿易航路を広げていきます。

大航海時代、何が面白いって、「異邦人同士の邂逅」というところですよね。これこそファーストコンタクトものSFですよ。
もちろん、いきなり大砲を打ち込んで戦争に持ち込んだというわけではなく、王に謁見を頼んで贈り物をし、正式に貿易を認めてもらう、というのが基本的には望ましいスタイル。とはいえ異邦人、なかなかうまく話が進まないこともある。
なにしろポルトガルはイスラーム商圏を疎ましく思っていたし(イベリア半島がイスラームに支配されてそれを取り返すという「レコンキスタ」を経ています)、結局武力にモノを言わせて占領していったんですね。

そして種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲が伝来されたとするのが 1543年。
実はこの1年前に琉球にもポルトガル船が着いているらしいのですが、マラッカを占領した話を聞いていて、貿易を拒否したのだとか。
つまり、1543年のポルトガル船とは有効に、いや、少なくとも国レベルの大きなトラブルはなく国交が始まっているということです。
ちなみに、かの有名なフランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸するのは1549年。
こちらも正式に大名に謁見して宣教の許可を得て布教を始めています。(といってもちょいちょい怒りを買ったりして場所を動いていたようで、ザビエルが本格的に布教を行うのは鹿児島を離れて平戸で宣教を許されてから、のようです。)

映画の舞台は1630年頃と思われるので、ここから約80年ほどして日本はキリシタン迫害となっていくわけですね。

大航海時代前後の日本とキリスト教

時代を戻して、1540年頃の日本。
そう、時は室町から戦国、日本史の中でも三傑が活躍して日本が1つになってゆくという激アツの時代です。

1560 年が、日本三大奇襲と言われる織田vs武田の「桶狭間の戦い」
1582 年には、「本能寺の変」で信長が去ると秀吉がそれを継ぐ形となって、1591 年に天下統一。
そして豊臣死後の毛利石田(西軍) vs 徳川(東軍)が大激突する1600年「関ヶ原の戦い」を経て、1603 年に江戸幕府の誕生となります。

ヨーロッパとの貿易は九州の大名たちが主体となり、都度、時の権力者たちに許可を受けるなどして行っていたということです。
例えばこの頃のキーマンである信長は貿易による実利を重視してキリスト教保護のスタンスだったらしい。また,当時の強大な勢力である寺社のコミュニティ(特に敵対したのは一向宗(浄土真宗本願寺派)だと言われている)に対抗する手段と考えていたという説もある。
戦国時代という「力を持ちたい」大名たちの思惑が貿易を、そしてもしかしたら、勢力争いの一つのツールとしてキリスト教を。時代がズレていたら、南蛮貿易、そして戦国や江戸の発展はなかったのかもしれません‥。

さて1550年代、主に平戸、そして薩摩ではポルトガル船が毎年のようにやってきて取引をしていたとのこと。南蛮貿易ですね。
ポルトガル商人と協力関係だったイエズス会(キリスト教カトリックで、布教を大事な活動とする組織)の創始者の一人でもありメンバーのザビエルは、1550年に平戸で正式に布教を開始。この時彼らを受け入れたのが平戸の松浦氏です。
伴い、平戸では貿易が栄えたわけです。

しかし改宗したキリシタンは寺社や墓地などを破壊するなどの行為を行い軋轢が生まれてゆく。
建物や偶像を破壊するだけならまだ命はあるわけですが、神職やキリスト教へ改宗しない人間を殺害する、などといったことも起こっていたのだとか。
1558年、宣教師に退却を命じ、それに乗じて仏教徒が教会を焼き討ちに。
1561年には、平戸でポルトガル人と取引価格の決裂から乱闘・殺傷事件に発展(宮ノ前事件)。

ちなみになぜキリシタンは寺社を破壊していたのかというと、宣教師(キリシタン)らは、神仏を悪魔とみなし、仏像や神体を破壊すべき偶像と考えていた。
…らしい。
(しかし、既成勢力としての寺社を信長が焼き払ったりしている時代のため、信仰の他にも、キリシタン大名側の思惑は何かあったのかもしれません)

キリシタン大名たち

ここで挙げておきたいのが、日本初のキリシタン大名だといわれている大村純忠。

彼は宮ノ前事件を受けて、拠点を探していたポルトガル商人たちに自身の領地である横瀬浦(佐世保よりちょっと南)を提供します。
厳格な曹洞宗だったとされる松浦氏とは違い、大村氏は自身もキリシタンとなります。ポルトガル商人やキリシタンをかなり優遇したようで、改宗者がすごい数だったとか。
大村に個人的にも恨みを持つ人物から横瀬浦を焼き払われたりしたけれど、今度は長崎へ。これが1570年です。
この人が長崎港を開いた(発展させた)その人なのですね。
そしてこの人、なんと長崎をイエズス会に寄進してしまいます(1580年)!

秀吉の天下統一目前、1587年に九州平定でいったんは安堵されるものの、秀吉もびっくりですよ。
まさか日本国の領土がキリシタン領になっているとは…。
大村氏はこの年に亡くなっているようですが、秀吉はまさにこの直後に最初の「バテレン追放令」を出して、イエズス会から長崎を取り上げています。

1550年頃から約40年、軋轢がありながらもなんとか共存(時は戦国時代、共存というより有象無象?)していたわけですが、日本統一とほぼ時期を同じくして弾圧が始まっていきます。
でも、この最初の「バテレン追放令」は「信仰は自由だけど、宣教師は出てってください」「大名がキリシタンになるときは許可が必要」くらいの内容で、ほぼ黙認と言われているらしい。
理由は諸説あるということだけど、キリシタンが寺社の破壊や改宗しない人間に危害を加えるなどといったこととは別の問題として、「奴隷文化のあったポルトガルは日本人を西洋に売り飛ばしていた」ということもあるらしい。
ともかく、これを受けてイエズス会は大々的な布教活動を控えるようになります。

しかしそれから約10年後、1596年にスペイン船とトラブル(サン=フェリペ号事件)があり、そして翌年には初の直接的なキリシタン迫害と言われる「日本二十六聖人」の処刑が実行される。
日本統一は1591年ですから、このときも秀吉がこれらを指揮しています。
でもこの二十六聖人の処刑も、イエズス会より後から日本に入ってきてとされる「フランシスコ会」に絞っているから、まだ全面的に「キリシタン=排除」というわけでもなかった。

しばらく後に日本を再統一した家康ですが、この家康も貿易には積極的で、1604年から1635年というわずか30年足らずで、350もの朱印船が長崎から行き来して東南アジア諸国と外交(貿易)を行った。
この家康も基本的には秀吉の策を踏襲していて最初からキリスト教弾圧を行っていたのではなかったのですが、江戸幕府が開いて約10年後の1612年、はじめて禁教令を発布。ここから1620年代にかけて大弾圧(処刑)が行われます。
家康が没したのは1616年ですが、鎖国政策と合わせて弾圧は加熱していきます。

家康が没した同1616年、二港制限令(長崎オランダ商館と中国との貿易に制限する)を発布。
イギリスの撤退(1623)、スペイン船の来航禁止(1624)、出島の完成(1636)、ポルトガル人の追放(1639)&オランダ人の出島移転…と続きます。
この後、国交回復(貿易復活)のために日本にやってきたポルトガル人はみんな死罪だったらしい。
まったく外交って本当に命がけです。本当に、ファーストコンタクトものSFです。

ここまでおさらいして、やっと本項、結論です。

結局のところキリスト教は脅威だった

家康が1612年に弾圧を開始した(正確には二代目秀忠、三代目家光が実行者)大きなきっかけの一つとして「岡本大八事件」というのがありますが、これは文字通りきっかけでしかなく、やはりキリスト教勢力を大きな脅威に感じていたのではないでしょうか。
寺社の破壊、改宗しない人間を迫害、奴隷貿易、ただでさえ弾圧されても仕方がなさそうなことをしている上にすごいスピードと信仰心でその裾野を広げていくわけで、しかもそれは海外勢力の強さにも比例しかねない。
やっとの思いで日本を統一した秀吉・家康からしたら、それを脅かすかもしれない大きな勢力に見えていたのでは。

大規模な処刑こそ初期に集中していて、その後の弾圧は基本的には棄教を迫るものであり殺戮を目的にしていたわけではないらしい。
映画の中でも、基本的には日本のお偉方はいきなり斬首!とかではなく、「棄教を表明すれば良いだけよ。」と諭します。これに代表されるのが「踏み絵」なわけですよね。
「まあ、そうしないならこうなるまでだけど…」と殺される描写も多いわけですが。

また、このページ↓の解釈は面白いです。

徳川家が発令したと言われる『鎖国政策』、本当の命令者は?

世界で宗教戦争が勃発している時代、鎖国をしたのはナイス判断だったと評する人もいるらしい。
1618年~1648年はヨーロッパでは最大の宗教戦争と言われる「30年戦争」が巻き起こっていたわけで、日本での活動に限らず、信仰は命がけだったわけですね。

国造りの天才(?)とも評される家康がなぜ弾圧、そして鎖国を行ったのか。
少しはヒントが見えてきた気がします。

ちなみに鎖国時代でも唯一貿易があったオランダは、1600年にリーフデ号が大分県に漂着したところから付き合いが始まっています。
こうやって見ると結構、遅いですよね。
貿易の実利を考えるとなかなか切れなかったポルトガルを追放に踏み切ったのは、オランダとの付き合いがこれに取って代わることができるから…というのも理由の一つと言われているようです。
(1637年に宗教的な反乱とも言われる「島原・天草一揆」があり、これもきっかけの一つと言われている)


なるほどね。
信仰には文字通り命がかかってる。
それをよく分かっていたからこその決断だったのではないでしょうか。

このあたりを分かった状態でもう一度「沈黙」を手に取るのもよさそう。


—–以下、参照したページなど。
実際にはもっと沢山見てますが、最後に開いていたページたち。