マーティン・スコセッシ監督 / 沈黙(サイレンス)

2020-05-19史実に基づく・史実がベース, 名作, 邦画, social 社会

ゴールデンウィークで長崎・五島列島へ行ってきました。
そこで同行する友人から、五島列島を舞台とした名著「沈黙」(遠藤周作)を教えてもらう。

キリシタンである主人公が、迫害を受けて棄教をするという大筋らしい。


なんと英語圏のレビューサイト最大手「goodreads」でのリアルタイムランキング「Best Japanese Books」で堂々の35位。

しかも、あのマーティン・スコセッシ監督が映画化し、それも評価が高いのだという。
こういう名著はまずは原作から読むべきかな、と思いましたが、そんなに評価が高いなら映画から観てもよさそうです。

マーティン・スコセッシ監督といえばThe Wolf of Wall Street が記憶に新しい。
ジェットコースターのような人生の天才(?)株式ブローカーの半生を描いた名作と思いますが、そのスコセッシ監督が江戸時代の日本でのキリシタン迫害などという色味の少なそうなテーマを描けるのか…?と、最初は思ったわけです。

見終わってみたいま、そんなもの杞憂でしかなかった。
さすが巨匠。感嘆のため息しか出てきません。

リアリティの鬼

あらすじはこう。
舞台は江戸時代初期。1630年頃の長崎、五島列島。
主人公はイエズス会の司祭(パードレ)であるロドリゴ。
恩師である司祭フェレイラが日本で棄教したという報を受け、納得できないロドリゴは、自身も日本へと旅立つ。
すでにキリシタンの迫害が始まっていた日本で隠れキリシタンに匿われながら司祭として活動するも、キリシタンでもある「キチジロー」に売られて牢に入れられることになる。
しかし、目の前でキリシタンが殉教してゆくのに耐えられず、最後には棄教を宣言する…。

さてこの暗いテーマ、舞台が日本ですから、日本人キャストが沢山出てきます。
キーマンとなる「キチジロー」は窪塚洋介。
通辞役は浅野忠信。
敵対者のポジションとなるイノウエ様にイッセー尾形。
さらに重要な役どころとなる、殉教する村人に塚本晋也。

ほかにも日本人キャストは多いですが、とくにこの4名。
名演です。。もうこれしか言えない。

邦画、なかでもラブコメ映画を見ると日本人俳優たちの演技がおままごとにしか見えないわけですが、「沈黙」を見たら絶対に「日本人、演技上手いやんけ!!!」と思わずにはいられないですよ…。
塚本晋也さんって私はあまり知らなかったのですが、映画づくりに命かけている系の監督さんでもある方と知り、スコセッシ監督と通ずるところがあるのだなと。
これは迫力が出るわけです。
一回しか観ていませんが、ほとんどのシーンに演技の迫力があり過ぎて、画面をほとんど覚えてます。

ロドリゴ役のアンドリュー・ガーフィールド、
フェレイラ役のリーアム・ニーソンも素晴らしい。
めっちゃ合ってる。役。

なんとなく「間で読ます」とか「微妙な表情だけで表現する」系の演技は、邦画が得意とするところなのかなと思っていましたが、もしそうだとしたら完全に邦画は喰われてます。

表現にしても、色味が少なく淡い濃淡だけで微妙な空気感を表現する、というのは、ビビッドで分かりやすい表現をしがちな洋画と比べると邦画が得意とするところだと思うのですが、こちらも完全に喰われてます。
朝もやの海、拷問中の炎の赤、砂っぽさ、闇の暗さ。
江戸時代を描く映画でリアリティを感じたことは正直一度も無いのですが、本作は完全にリアルなものとして作中に没入してました。
全然、「過去の出来事」って感じがしないんですよ。
脚本に沿って動いてるだけの役者さん、という感じが全くない。今思い出しても「まさにそこにいたんだ」という感覚。

しかもこの映画、音楽が一切流れません。
音楽って感情を動かしやすいツールだから、分かりやすい起承転結が好まれるハリウッドとかでは多様されると思うのですが、ここでは一切それがない。洋画で音楽無しというのは初めて観たかもしれません。
テーマ曲もなく一切音楽で起伏を作らない、というのはすごいですよ。
観る側自身が、自分の受け取り方と向き合わなくてはいけない感じすら受ける。

スコセッシ監督は自身もキリスト教徒で、かつてカトリック司祭を目指していたらしい。
その経験が作中のロドリゴとも重なったのではないか、と言われている。
Wikiによれば、1991年から「念願の企画」と言いつつも事情があり公開は2016年に。それだけでもかなり思い入れの強い作品なのだなと分かりますね。重厚感、出るわけです。

ちなみに、「なぜ幕府は残酷な弾圧を行ったのか?」という理解を深めるために、こちらで少し歴史を振り返りました。
※記事が1年未来の日付になっているのは、映画をみたのは2019年だけど、色々調べてダラダラ書いてたら1年経ってしまっていたからですw

フェレイラとロドリゴの決断

フェレイラ司祭は、実在したパードレ、クリストヴァン・フェレイラ氏がモデルのようです。
フェレイラ氏は1609年に日本を訪れ(すでにバテレン追放令などが出始め、堂々とは布教できない時期です)、そして1633年に棄教。
まさに大弾圧の時代を日本で司祭として過ごしていたことになります。

そして主人公、ロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラ司祭は、まさにポルトガル人追放となった1639年あたりで日本に入っています。そして1643年に棄教。

まったく当時のイエズス会(カトリック)ってとんでもなく布教熱心ですよね…。
それでいて「殉教」なんていう美学があるわけだから、対処のしようがない。

宗教の歴史や宗教観については改めて勉強したいなと思いますが、ちょうど別でまとめている「愛するということ(エーリッヒ・フロム)」では、
西洋の伝統的な宗教(ほぼキリスト教を指すと思われる)は「正しい行動より正しい信仰が重視される」、対して東洋の宗教は「なにより正しい行いを重視する」といった解釈が出てきます。
だからといって西洋の宗教を否定するわけではないのですが、「行動しないと意味がない」という結論に向かっていく本であり、なるほど「信じて待ってても何も起こらないよなぁ」と思うわけです。

これ、本作においてもまさに、という感じです。

ロドリゴは、キリシタンが殉教していく様を見て、そして自身も棄教を迫られる身として、「なぜこんなに苦しい試練をお与えになるのか」そして「どうしてあなたは沈黙しているのか」と、「正しく信仰しているのに、いっこうに救われないじゃないか」と段々と気づき始めます。

ロドリゴが棄教するシーンは、すでに「棄教する」と宣言している元キリシタンが拷問にかけられている最中で「お前が棄教するというなら彼らを釈放してやる」と迫られている場面。
「お前が棄教するなら彼らを助けてやる」とまで言われても渋っているロドリゴに、フェレイラが、「今ここにイエス様がいたら、『棄教して彼らを救いなさい』と言うだろう。」と言うのです。

そもそもロドリゴが布教していたのは、(誰かを)「救うため」のはずで。
自身が頑なに信仰を守ることが明確に誰かを苦しめることになるなら、信仰を棄てることのほうがむしろ正しいのではないか?

フェレイラの言葉は、ロドリゴの信仰心を根こそぎスコップでざっくり掘り返すような・・・、一つのことに集中しすぎて視野が狭くなり周りが見えなくなってしまった誰かの思い込みを、「ハッ」と覆すような、そういう鮮やかな気付きを感じさせてくれます。
幕府側の(言ってみれば汚い)やり方を正当化したり称賛する気はまったくなく、このシーンだけで考えると、いつの時代も渦巻く戦争や平和へのジレンマ、そして思い込み(信仰)の力と矛盾を鮮やかに書いている、素晴らしいシーンだと思います。

作中の最後では、フェレイラやロドリゴは心の中では信仰を棄てていなかったのだ、ということを示唆する描写になっています。
個人的には、「まぁそうやろな。若い頃に身を捧げて信じていた概念が大人になってから否定されるなんて普通は受け入れられんやろ。」という感想ですが、これは現役キリシタンの方、そしてキリスト教に一言ある方はどう見るのでしょうかね。

本当に世の中を勉強し足りないなと痛感させられる、いい作品です。

長崎や五島列島に旅行に行くにあたっても、街を見る目が全く変わってくるのでオススメです。