ヴィクトール・フランクル(霜山徳爾 訳) / 夜と霧

2020-05-19史実に基づく・史実がベース, 名作, 味わい本(じっくり読みたい), psychology 心理学, self-dev 自己啓発/リーダーシップ, social 社会

知人におすすめされていた本。

秋の夜長に、没入して読みたくて、じっくり時間を気にしないでいられるタイミングを見つけて読みました。

珍しく、哲学的?宗教的?な感じの感想になってしまったけど、わたしはげんきです。w


どんな恋愛映画にもかなわない「愛について」

前半は、ドイツの強制収容所の実態をよく知らない読者に向けて、淡々とその惨状が説明されます。
後半が、本編であるフランクル氏のエッセイ。

この前後編、その目的のせいで、かなり雰囲気が違います。

前半は「人間の悪の限界」が垣間見え、周囲に流されてなのか、本性なのかは厳密には分からなかったとしても、同じ人間がここまで非道なことができるのかと、背筋が凍る気持ちになります。
(ちなみにこの本の中では、基本的には「本性」という捉え方で出てきます。)

後半はユダヤ人として捕らえられたフランクル氏が、どんな時にどんなことを感じたのかという内的な問いかけや発見であり、前半と変わって「人間の生と愛の可能性」が垣間見える内容です。

このコントラストが本書の見どころであり、このギャップ(差分)こそが人間の幅なのだと感じます。

フランクル氏は、どんな状況であっても、文字通り自らの決断によってどう生きるかを決められる※ことを示してくれます。
※周りを動かせるという意味よりも、たとえ状況的に死しか見えないような最悪の状況であったとしても、どんなふうに誇り高くあるかという決断は自らで唯一できるという意味。

そしてそれは、みつをが言ってそうな「すべては自分自身(の捉え方や心掛け次第)だよ」というようなことと、本質はおそらく同じなのですが、フランクル氏のそれは、もっともっと自分の外部の世界との強い繋がりを想起させます。

それは「何かが自分を待っている」と表現してあるのです。

フランクル氏の場合は、その気づきを得たのが奥様でしたが、待っているのは家族や恋人というわけではなく、それは仕事かもしれないし、詰まるところ、その人が「これが自分(の人生を)待っている。だからそれに向かって生きる決断をしなければ」と思えるのなら何だってよいわけで。

これが「愛」なのだなと。

かつ、「自分にしかできないこと」であり「使命」なのだなと感じました。


「他人とはほんとうの意味で心を通わせたり共感したりはできない」ということを、「物理的にそうであることは納得するけれど、それは他者を愛さない理由にはならないし、だからこそ他者との愛を本気で信じている。それがどれだけ独りよがりだったとしても。」という、力強くポジティブな確信のようなもの。

「啓示を受ける」って言うと、受動的にやるべきことを授かった、と聞こえるけど、おそらく正しくは、「他人が代わることのできない自分自身の存在意義を、まさに自分自身が見つけた(認めた,決断した)」ということなのかなと。

それは、他の人が見向きもしないようなおかしなことの研究かもしれなければ、逆にあらゆる人の日常に溢れていると思われることに対しての自分なりの追求かもしれなくて、特定の誰かのために生きていると言い切れるような愛かもしれなければ、周囲の環境と調和して自分なりに幸せに暮らす、という一見「愛」や「信念」とは遠いような何かかもしれない。

でもそれは、自分の思い通りにならない世の中で、その中で「生きる」という決断であって、そしてそれを何らかのものに捧げるという「愛」なんだと思う。

強制収容所の異常性

ナチの強制収容所の何が恐ろしいかというと、「意図的に直接的に(罪のない人たちを)システマチックに拷問・殺戮していた」ということ。

私は他に強制収容所やホロコーストの詳しい情報を調べたことがないので本書の情報からのみの印象になってしまうけれど、とにかく前半は恐ろしいです。
ダウナーなときに読んだら他人が信じられなくなるんじゃないかっていうほど、怖い。

生きていくために周囲に流されて、だんだん異常な状況に良心の呵責を覚えなくなっていってしまったとか、政治的に究極の選択を迫られて、とか、そういう理由での拷問や殺戮ではない、つまり快楽殺人みたいなもの…と思われるものが載っています。
単純に人を傷つけるという意味では、理由があればそれをしていいというわけでもないけれど、純粋に狂気を感じて恐ろしい。

でもこれが、人間のいち側面である、ということや、まさに事実そういう歴史があったのだということはぜひ知っておきたいですね。

「一九八四年」

ジョージ・オーウェルの「一九八四年」を思い出さずにはいられなかった。

むしろ「一九八四年」は、ナチをモデルにしているのだと思いますが、すでに戦後60年経った今の人達にとって強制収容所の実態はリアリティが薄いので、それが現実だったらこういうことだ、という表現としては
「一九八四年」のほうが印象的。

「一九八四年」の主人公たちを介して、当時、もしも私がそこにいたらと思うと、当時の人たちの「生きる信念」や「信じ抜く決断」みたいなものは、本当にすごかったんだと痛感させられる。

私だったら、圧倒されて流されて逃げようとして希望も無くしてどこかで野垂れ死んでいるかもしれない。

「一九八四年」では、拷問を受けても最後まで「指は四本しかない」と言い切るウィンストンの力強さに感動しましたが、そういう人たちが、フィクションではなく、おそらく実際にいたのだと思うと、言いようのない気持ちになります。

「一九八四年」は、私はSFの括りで手に取ったこともあり、あくまでもフィクションとして捉えていたのに、夜と霧を読んでから唐突にリアリティを持った記憶に変更されてしまいました…。

色んな意味で、こちらもぜひ読みたい作品。