「海難1890」で学ぶ、トルコと日本の19世紀末

史実に基づく・史実がベース, 作品から学ぶシリーズ, image 映画

トルコについて学んでいたときに知った作品。
トルコと日本の関係を描いた素晴らしい映画と聞いて。

日本最大のモスク「東京ジャーミイ」に偶然訪れたときにも、この作品の紹介が展示されていた。
(東京ジャーミイは歴史や宗教のことはさておいても「映えスポット」としても有名らしい。信徒の方々の邪魔をしなければ、軽い気持ちで訪れてOK)


本作は1890年、和歌山県沖で座礁した「エルトゥールル号」というトルコ(当時はオスマン帝国)の使節団を日本人が助けたという話と、1985年のイランイラク戦争下でトルコ人が日本人を助けたというエピソードを映像化したもの。制作は2015年。
トルコの人たちは「エルトゥールル号事件」をよく知っているらしい。

世界中のあらゆる事件を全て暗記しろなんてのは無理な話だけど、日本や日本人がしたことで相手が強烈に覚えているもの(教えているもの)は、「よいこと」だろうと「よくなかったと思われること」だろうと、できるだけ事実を知っておけるとよいなぁと改めて思うのでした。

映画の出来というよりこれら事件について、自分なりの感想をまとめておきます。
まずは歴史的背景をおさらいするところから。

帝国主義の時代(1890年前後)

日本(明治23年)

さて、1890年は明治23年、日本では西洋を手本とした近代国家への整備が急加速している時代です。
前年の1889年には大日本帝国憲法が発布され、1890年は記念すべき第一回衆議院議員総選挙が開催される。

この近代化は帝国主義が台頭していた世界で薩長が「国家の生き残りのために」力づくでおこなったものと考えてよいでしょう。
植民地候補にされる前に存在感を示そうと、この4年後(1894年)には日清戦争を仕掛けて勝利、そのちょうど10年後(1904年)には日露戦争を仕掛けて勝利しています。

たった数十年でちょんまげ結ってた人たちが戦艦で大国に勝利するまでになる…という、帝国主義時代においては完全なライジングを果たしていくわけですね。
(明治維新目線から見ると幕府はまるで世界情勢が見えていなかったかのような印象を持ちますが、幕府も十分に世界情勢を察知して手を打とうとしていたようです。また、地方自治を維持しつつ中央集権化を長らく実現し平定を保ってきた幕府のおかげで、各地で独自の文化が隆盛し庶民にまで読み書き教育が行き届き…と、下地は徳川が整えたと考えてもいいのではないでしょうか。)
ともかく国家としては急激な変化を遂げつつも、1890年は村レベルで見ればまだ草履にペラペラの小袖を着ていた様子。江戸時代の雰囲気を十分に引き摺っている。

ちなみに、かつて長らくお手本にしてきたお隣の大国(当時は清)は1842年にアヘン戦争で弱体化が露呈、日本にも1853年にはかの黒船が来航。黒船来航から大政奉還・明治元年の1868年までたったの15年です。

オスマン帝国(末期)

オスマン帝国といえば「鉄壁の東ローマ帝国(コンスタンティノープル)を攻め落として陥落させた(1453年)」が有名。

建国は13世紀末(1299年)遊牧民族長オスマン1世から始まり、1922年の滅亡まで770年ちかく激動の地中海東沿岸付近に君臨した多文化国家。ベースはイスラムなのだけど、キリスト教などを必要以上に排除したりすることなく、周囲の多様な民族や宗教を包含して大きくなっていきます。
オスマン1世から皇帝は脈々と血を受け継ぎながら領地を拡大。「イェニチェリ」という、軍とは別の君主直属舞台を他人種で組織したり、即位とともに兄弟を殺す文化が定着したりなどしていきます。(即位後の兄弟殺し自体は他の国でもあるあるですが)
コンスタンティノープル陥落は、8代目皇帝であるメフメト2世の功績ですね。

しかし、西欧列強の帝国主義が台頭しはじめた19世紀後半、オスマン帝国もその煽りを受けて弱体化の末に破産、1876年にオスマン帝国憲法(大宰相の名を取って通称「ミドハト憲法」)を発布して議会を設置します。日本の大日本帝国憲法発布が1889年ですので日本より13年早いということになります。
ところが発布からたった2年後にロシアとの戦争にまたも完敗し、専制政治へ戻してしまう。しかし流れには逆らえない。西欧式の価値観で育った若者たちが憲法復活を掲げて反発。1908年には「青年トルコ革命」が成功して憲法を復活します。

その後革命派政府は第一次世界大戦を経てまた瓦解するのだけれども、諸々の内乱や戦争を経て領土をどんどん削られ、のちのトルコ共和国の初代大統領となる元軍人のムスタファ・ケマルによって議会を設置した新政府ができ(1920年)、当時の皇帝だったメフメト6世は亡命(1922年)、実質的に帝政が廃止されるに至る。

オスマン帝国は宗教や人種を多様に包含してこそ成り立ってきた大国だったわけで、民族自決の風潮に対抗できなかったとみてよさそうです。
日本が黒船来航から15年でさっさと近代国家化した(形式的なものだったとしても)のに比べると、ミドハト憲法から数えて50年近くかかっていてゆっくりに見えますが、結局日本は島国だったので境界線が分かりやすかったということと、幕府が「日本国」という列島意識をしっかり定着させていたために、民族自決への流れが非常にスムーズなだけだったと考えてよいでしょう。

ともかくエルトゥールル号事件が起きた1890年というのは、日本における明治維新の萌芽のようなものが大きく育ちかけている時期だった(つまり歴史と伝統のオスマン政府は強い危機感があった)、というわけです。

エルトゥールル号

エルトゥールル号は、1887年に日本から皇族(小松宮彰仁親王夫妻)がイスタンブールを訪問したことをきっかけに皇室同士の関係が始まり、当時の第34代皇帝より勲章を捧呈するために派遣された船。ざっくり言えば、権威者達の、政治的かつ友好的な返礼のご挨拶の船だった、という理解です。

ちなみに小松宮彰仁親王は皇族で、明治維新前後は官軍として戊辰戦争や西南戦争にも出征。Wikipediaによれば「親王はヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範(そっせんすいはん)した。」とのことで日清戦争で旅順にも赴いているらしい。社会事業として赤十字など各種団体の総裁を努め、現在の公務の原型を作る一翼を担った…。すごい方だ。
国際親善にも力をいれ、1886年にヨーロッパ各国を歴訪した…とある。そのうちの1国がオスマン帝国だったわけですね。

そしてエルトゥールル号は、1年近くかけて1890年に横浜港に到着。明治天皇に勲章を奉呈してミッションは完了しましたが、コレラなどの影響で3ヶ月近くも停泊(6月~9月)。さらに古い船だったらしく、台風を懸念して出港を遅らせるよう日本側は勧告したそうなのだが、それを振り切って出港。
懸念が的中し、台風に煽られて和歌山沖で座礁、さらに水蒸気爆発で沈没してしまう。
なんと656名の乗組員のうち、助かったのは69名だけだったという大惨事でした。

このときに彼らを必死に介抱したのが現在の和歌山県串本町の人たちだった、というわけです。
映画の描写を信じるなら、深夜帯だったのにも関わらず、びしょ濡れで死にそうになっている異国の人の応急処置をしたり暖を取ったり、消して裕福な町ではないのに、冬の蓄えなんかも引っ張り出してきたり、武具などを磨いて持ち帰れるようにしたり、本当にできる限りの介抱をしたようです。
現在だったら「プロの邪魔になるから素人が勝手に動くな! 渋滞するから自己判断で助けに行くな! 自衛隊や救助隊の到着を待て!」とか言われてしまいそう、、ですね。。少しだけ悲しい。
そして日本国としても友好国の使節団ですから迅速に対応し、事件から20日後の10月5日には海軍が「比叡」と「金剛」にて生存者をイスタンブールへ送り届けています。

できるだけ人災である側面を隠したいオスマン政府としては天災による悲劇だったという面を強調、そして新聞の報道などから日本が介抱した事実などが報道され、オスマン市民は(おそらくそれまでほとんど知らなかったであろう遠い異国の)日本国を好意的に感じたのだとか。

ちなみに余談も余談ですが、トルコ人というのは「そこに住む人」という文脈では「トルコに住んでる人」という意味で間違ってないと思いますが、民族的な意味での「トルコ人」はもともと中国の北側の「突厥」エリア付近の騎馬遊牧民だったらしく、それが南下して色々な地域に定住していった民族です。
(つまり民族的な文脈で言えば、現在トルコに定住しているがトルコ民族ではない、という人はおそらくいるということです。ユダヤ人ですとかアラブ人ですとかですかね。)

イラン・イラク戦争時にトルコ機が日本人を乗せてくれた

さて話は飛んで1985年。結構最近です。

通称イライラ戦争と呼ばれるイラン・イラク戦争は、1980年から停戦まで8年間続いた近代戦争。
その当時のイラク指導者であるサダム・フセインが「48時間以内後にイラン上空の飛行機を無差別に攻撃する」と通達し、イランにいた外国人はそれぞれ自国が派遣してきた飛行機などに搭乗して自国へ避難していきます。
しかし当時の自衛隊は法律上、日本人を迎えに行けなかったらしく、民間機に依頼するも安全性の問題で手配できず、215名の日本人が取り残されかけていた。

その時、駐イラン大使の野村豊氏がトルコに働きかけたり、また当時の伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永堯という方が、当時のトルコ首相(オザル氏)に直接掛け合ったことでトルコ機が派遣され、日本人全員を日本まで送り届けてくれた。
(ただし映画では一般人である森永氏は未登場です。)

このときイランのヘテランの空港には、自国の救援機を待つトルコ人が500名ほどいたそうなのですが、日本人を優先することに大きな反発もなく、陸路でトルコに帰れるということで自動車移動をしたそう。
このテヘランの空港のシーン、映画ではトルコ大使館の若者が「日本人を優先してあげてくれないか、なぜなら彼らはかつて我々を助けてくれた慈悲深い人たちじゃないか」みたいな演説をしてトルコ人が納得してくれる、というエモい感じのシーンがあるのですが、これが創作なのか事実なのかは少し調べただけでは分かりませんでした。

ただ、空港に集まったトルコ人が飛行機を諦めて引き返した、というのは事実と思われるので、映画ほどエモい演説じゃなかったにしろ誰かが説明したのは間違いないと思われます。
「エルトゥールル号の借りを返すぜ」的なことを思っていたトルコの方はいたのかもしれません。


※日本が助けに行けなかったことについては、どうも日本政府は後の国会で「準備は万端だったしなんならトルコが救援を申し出たからやらなかっただけ」的なことを言っています。それに映画ではキーマンだった駐イラン大使の野村豊氏も、「僕が頑張りました」というよりは「何かあったときに各国と助け合えるように取り計らってはいた」のような曖昧な表現をしているようで、実際のところは伊藤忠の森永堯氏ありきだったのでは、という見方もあるようです。
ネットに落ちていたプロジェクトXの書き起こしを見る限りだと野村氏は必死に駆けずり回っていた様子なので、真摯に謙虚な表現をしただけなのでしょうが、日本政府が本当に準備万端だったのかと言われると怪しいんじゃないかなぁと思います。

イライラ戦争

ついでに、このイライラ戦争とは何だったのかも振り返っておきます。

当時、石油利権を西欧諸国に奪われるなどで経済的に困窮して西欧化を頑張らざるを得なかったイランでしたが、内紛(イラン革命)で西欧化を脱却しイスラム原理主義的な国づくりに転換していました。今も続くイラン=イスラーム共和国です。イランは主にシーア派。
この革命がイライラ戦争前年の1979年です。

1979年といえば…そう、第二次オイルショック!
イラン革命前のパフレヴィー国王がいわば西欧諸国に石油利権を許していた形だったため、革命後の政府が西欧諸国を排除して価格を釣り上げ輸出量を制限したことで石油危機となったわけです。
ちなみにこの約30年前の1950年代初頭にはモサッデグ首相が、石油利権を握られていたイギリスに反発して国有化しようとしていますが、クーデターで失脚しています。これが、英米が裏で噛んでいたアジャックス作戦というとんでもないやつでしたね。
西欧に搾取された長年の鬱憤が大爆発して極端なイスラームに振り切ったのがイラン革命と思ってよさそうです。

(また、このイラン革命が起きたとき、親米だったパフレヴィー国王は結果的にアメリカに亡命したため、それに怒ったイスラム法学校の学生らが引き渡しを求めてテヘランのアメリカ大使館を占拠。大使館にいた52人は人質となってしまい、解決するまでなんと1年以上もかかった…。死者はいないようですが、アメリカにとってもトラウマ事件のようです。)


そして、このときのイラクの指導者はかのサダーム=フセイン。イラクはスンナ派が基盤です。
フセインは、イスラム過激派のビン=ラディン@アルカイダとは「水と油だから手を組むなんてありえない」と言われているように、イスラムでありつつもアラブ民族主義のほうを重視しており比較的、親欧米でした。

イスラムにおいては、指導者(カリフ)はかつてのカリフの血統しか認めないというシーア派のほうが少数派で、多数派は、教団が指名するカリフ(血統は関係ない)でよいじゃないかというスンナ派です。

フセインはお隣のイランがイスラム原理主義国となって勢いづいているので、シーア派が力をつける・国内に伝播するというのを恐れて戦争に踏み切ったのではという見方があるようです。そのほか石油利権を巡る対立構造などもあったということで、イラク(フセイン)側がイランに侵攻して開戦。
ところが意外と苦戦するイラク。アメリカも、英米の言うことを聞かなくなったイランのイスラム原理主義国家が伝播することを恐れ、軍事援助します。
イラクは化学兵器なども用いて足掻き、1988年に停戦となりました。

(ちなみにこの翌年に冷戦が終結、そしてその次の年にイラクはクウェート侵攻し、アメリカを中心としたソ連を含む多国籍軍に敗れるという湾岸戦争が勃発。このあと9.11の主犯であるビンラディンを匿ったとか大量破壊兵器があるとかで2003年にイラク戦争を仕掛けられ、敗北の末にフセインは処刑されています。イラク戦争の話は以前観た映画「記者たち 衝撃と畏怖の真実(Shock and Awe)」も面白いです。)

この映画の視点からみて興味深いのは、繰り返しになりますが1985年というのは一応「戦時中」であるということですよね。

映画だと1985年シーンの主人公は日本語学校の教師という設定ですし、伊藤忠の方がいたりなど「人道支援ボランティア」「戦時ジャーナリスト」的な立場ではない一般人も少なからずいたということなのでしょう。

もしもトルコが助けてくれず、日本が救援にむかえず、フセインの爆撃に日本人が亡くなっていたとしたら、日本人は「助けに行けるよう制度を整備すべきだ」と言うのか「戦時中に現地にいるなんて自業自得だ」と言ったのか…。
後者を自信を持って否定できないところが、情けない気はします。

あれ? 現在のトルコはオスマン帝国じゃないじゃん?

さて、だいぶ寄り道しましたがエルトゥールル号周りの感想です。

このトルコエアーでの救出劇、トルコなんですよ。当たり前ですが。
でもエルトゥールル号で助けたのはオスマン帝国の使節団なんですよ。
でも現在のトルコの方は、たぶん自分たちが受けた施しだと思ってくれているわけです。
これ、とっても大事だと思いませんか。

つまりその時の皇帝が誰であろうと、クーデターで成り立ったぜんぜん違う方針の国であろうと、つまり国が変わったのだととしても、民衆はちゃんと連続性を感じているということです。

日本で例えれば、江戸幕府末期の使節団が遠い異国で助けられたことを、1980年くらいの日本人が覚えていて恩返ししようと思えるかどうかということなんですが、きっと日本人でも(ちゃんと報道されれば)そう思えると思うんです。あんまりそういうの聞いたことがない気がしますが…。

政治の話になるとどうしても、大統領だとか首相だとか外交官だとか、そういう人たちが利害関係の調整をして運命を決定づけている感覚を持ってしまいますが(そしてそれは事実だと思いますが)、民衆レベルでは「助け合うべき良き友人」であれるはずなんですよ。
あれるはずだし、そうありたいと思わされる映画でした。


ところでトルコは親日だと言われています。おそらくそうなんでしょうね。
理由としては、色々あるのだと思いますが、納得感のあるものを並べてみます。
  • エルトゥールル号の船員を送り届けたとき、そこに搭乗していた記者の野田正太郎氏がオスマン帝国に請われて士官学校でそのまま日本語講師として残留することになった。その時にその講義を受けていた人物が、トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマルだった(から彼は日本を好意的に伝えたし扱った)
  • お互いにロシアの脅威に立ち向かってきて親近感があるとか(オスマン帝国はロシアと何度も戦争している)
  • そのロシアに日本が勝ったことから「トーゴー」という命名が流行った
ただ、そもそもトルコは日本人に限らず人助けをする精神に溢れているとかで、けっしてエルトゥールル号で恩を受けたこと「だけ」をもってイランイラク戦争のときに日本人を助けたとは言えないと思います。

オスマン帝国も明治政府も色々と大変な時期だったわけですから、政治的な思惑がゼロの純粋な好意によるお付き合いとも思いません。
地域も離れていて利害関係があんまりない国同士だから「友好国」と簡単に言って美談を語ってしまえるような気もしなくもないです。
それでも、エルトゥールル号が両者が歩み寄る機会を加速したのは間違いないのでしょうね。


コレをしたからアレをしてもらえた、などという単純な損得勘定で捉えるのではなく、困っている人がいたら何の躊躇もなく助けに走れる人でありたいです。

それとトルコシリア地震と能登半島地震、改めて寄付をして、ボランティアの募集がかかったらボランティアに行きたいなと思います。

いい映画でした!

海難1890
内野聖陽 (出演), ケナン・エジェ (出演), 田中光敏 (監督)
参考サイト:
日本トルコ文化交流会
http://www.nittokai.org/history/
エルトゥールル号遭難事件(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6