坂口 尚 / あっかんべェ一休

2020-05-19お気に入り・おすすめ, 史実に基づく・史実がベース, 名作, self-dev 自己啓発/リーダーシップ, comics 漫画




プライドは捨てろというブログ記事を読んで、ヴィンランド・サガという漫画を知り、その作者である幸村誠氏が、影響を受けた漫画として挙げている作品。


さてこのサイトさんが、素晴らしい書評をしてくださっています。
手に入れる前にこちらを読んだだけで、とても気が軽くなってしまった。

この記事で大体ポイントは分かるのだけど、やっぱり読みたい!!ということでamazonでポチリ。Kindle版があったらすぐに購入しようかと思ったけど、ないのねー。

圧倒的に「それでいい」ことを教えてくれる

一休さんの一生を情熱的に書ききってある素晴らしい作品だと思います。

上巻は周建(一休)が思い悩みながら、それでも権威などには徹底的に烏合せずに自らの解を求めていく。
下巻は、一休として、もう悟り開いちゃった僧らしく、言動には迷いなどが無いです。

逸話に聞くように、戒律をガンガン破りながらも飄々と真理を突いてまわる。

でも、悟りを開いていても、一休さんの中では常に問答は起こっていて、迷いがあり、煩悩があり、「死にたくない」という最期まで、「人間に生まれたからこそ」という姿勢を徹底する一休さん。

謙翁和尚の門下になったのが17歳。そのあと華叟和尚のところで約4年?かな。
私はちょうど一休さんが悟りを開いて印可状を蹴るあたりの年齢なので、特に上巻は真に迫ってくるものがありました。

うーんほんと、ガンコ。この人。すごい親近感。


一休さんの「悟り」と「煩悩」

一休さんは天皇の子という説が有力らしく、本作もその設定に則って進みます。
本当は皇子として裕福な暮らしができるはずだったのに、皇居を追いやられて悲しみにくれる母の記憶や、父に捨てられたのだという思いや、辛い修行。。
「本来自分はこんな生活をしなくていいはずなのに」と、父を憎んだり、悲しんだり、だからこそ「悟り」を得ようと躍起になる。。

そんなフツーの感情(煩悩)を持っている一休さんは、20代で悟りを得ます。

「一休さん」という名前の由来ともなった有名な一句は、これ。

有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け
直訳はともかく、色々と解釈があるみたい。
(公案に対してどういう解になっているのかについては、正直まだよくわかってないんだけど…)

私は、「世界へはみ出す」にあったように、「未来の安心なんて"無い"し、トラブルも起こるものなんだから、その中でやれるようにやればいいんだよ」という解釈をしてます。
所詮世の中なんてそんなもんだから、まぁ色々起こるけど、落ち着いてどっしりいこうよ、という感じですかね。
ネガティブな言葉を使うと「諦め」みたいなものかな?


そして、「悟った」のはその後。
詠んではいないけど、こう残している。

鳴かぬ鴉はなんとでも鳴く

カラスがカァと泣いた時に大悟した、ということらしい。
いったいどこまでが嘘かホントか、という感じですが、この作品を読んでると、本当にこんなかんじだったんだろうなぁ、と思います。

答えが出るわけもないのに、悩んで悩んで眠れず深夜を過ごしたら、日が昇る前に鴉が大声で鳴いた…… 
「ハァァ、気が抜けた。なんだよもう朝か…… 結局寝れずじまいだよ… まぁいっか…」
20代に悩んで立ち止まったことのある人なら、誰しもこんな経験があるんじゃないかな。いやほんとに。
私はある!笑

一休さんはここで悟っちゃうわけですね。

お前は"私"という洞穴から去った!

私が羅漢といわれるならば それでかまいません 作家にならずとも結構です!


このへんの問答が見どころです。

ものすごく救われます。


でもこの後も、ずーっと煩悩と戦い続けるところがまた、見どころなのですよね。
一回悟ったからって、煩悩を捨て去ることなんてできるわけ無いんだと。

それが、終盤の蓮如さんとのやりとりと、「蜘蛛」とのやりとり。
圧巻です。

「蓮如さん 今の音は 右手の音ですか 左手の音ですか?」

「葉の表裏のように張り付いている 一方を捨て去ることなどできはしない!」

「これが生だ! これが生きるということだ!!」

「悟ってまた煩悩 煩悩してまた悟る!」

「人間に生まれてしまった!その通りだ」
「だから私はこう言おう!人間に生まれたからこそ!!」



※そういえば、江戸を舞台にした歴史小説を読んだ際「白隠の隻手やいかに?(はくいんのせきしゅやいかに)」というくだりがあった。解説がなかったので当時は意味不明だったことがある。
一休さんが「どちらの音ですか?」と聞いた時「あー!」と思い出した。
「隻手音声(せきしゅおんじょう)」は、白隠という方が作った公案とのこと。
白隠は江戸時代の禅僧さん(1686-1769)ということで、同じ臨済宗でも室町時代の一休さん(1394-1481)とは全く関わりないのだけど、謙翁和尚の言う「差別の心を捨てよ」という教えは揺るがないわけですね。(と、私は解釈。)



以下気になる人物について少しだけ。

■養叟宗頤さん。
一休さんが、いわば「蹴った」、お寺を継ぐというポジションに最終的に就いた人。
ほんとにこんな業の深い人が仕切ったのかよ…と残念になるお方。(漫画なので誇張表現してあるのか?とも思うけど…)
いくらボケてても、華叟和尚、そんなこと(この人に継がせる)するかな。とすら思うお方でした。
人の煩悩にハマってしまった人、という対比で出てきて面白かったです。

■安国寺の像外集鑑和尚。
一休さんが最初に入った、大きなお寺の和尚さん。
ディズニーに出てきそうです。初めての師。
この人、この本の中で最も「よくある、普通のいい人」だと思った。
いい人なんだよね。和尚だけあって、この時代においては学識もあって。
だけど、夜な夜なお布施(?)のことばっかり気にしてたり、水飴を子どもには「毒だ」と嘘をついていたり。
心優しいけど、ふつーの人なんだよなぁ。




“私"という洞穴、欲を捨てたいと願う"欲"


なりたい物を思い描いて努力することや、自分を見つめなおして改善点をなくすことや、夢を見ることは、基本的にとても良いこととされていて、それってつまり、「今ここにはない何か」に希望を求め、「今の何かを否定する」ということ。

もちろん、、夢を持つことや、目標を設定すること、それに向けて努力することって、ものすごく大切だと思う。
本当に大事だと思う。

だけど、この自己責任の世の中、どんな命題に突き当たっても、「なにもかもあなた次第です」という解ばかりがあふれていて。

全ては自分次第、…みたいなのは、その通りなんだけど、この暗黒ループにハマると、「私」「私」「私」「私」…… 抜け出せなくなるんだよね。。

「私は本当は何がしたいんだろう?」
「私には何ができるんだろ?」
「こんなこともできない私はどうすればいいんだろう」
「私は何をしている時が幸せなんだろう」
「あんなに迷惑をかけている私はダメな子だ」
「将来どうなっていたいか?自分にとって大事な価値観とは?」
「自分の答えすら決められない私なんて」

こういう、終わらない自分探しとか自意識過剰が延々と続くのです。

もう、「私」枯渇です。

もうどれだけ問いかけても、貶めてみても、ないものはないの。 なれないものはなれない。

自分の人生や責任や、「私という個体」に、囚われすぎだと思うのです。

物的な自然世界や、「他人」なんかも含め、もっと世界は溶けている(影響しあう事で個々が存在している)し、それ自体が素晴らしいこと。
その中のほんの一部分を曖昧にまとめただけの「自分」なんて、自分が思うほど重要じゃないんですよね。

その悩みも「自分一人で解決」しなくてはならないものでもないし、もしかしたら「解決するべき問題ですらない」かもしれない。

「夢を持たなきゃ」
「私がなんとかしなきゃ」
「自分が変わらなきゃ」
「こんなに辛いってことは私が悪いんだ」

これが「私という洞穴」かぁ…と思うよ。

そんなこと全然ないよ。

ていうか自意識過剰だよw

全てはあるがままでいいんだよ。



一休さんの、明日の飯があるのか無いのか、いつ誰に戦争で殺されるかもわからない、みたいな激動の時代と比べたら少々質は違う気がするけど、今だって、世の中の煩悩なんてほとんど同じだと思う。

でも、洞穴から去っても、「人間に生まれたからこそ」。

常に何事も表裏一体、そこに"存在"が生まれる。それでいいじゃない。一休み、一休み。