[原作比較] BLADE RUNNER | ブレードランナー ディレクターズカット 最終版
1982年公開、かの有名な「ブレードランナー」をやっと観ました。「ディレクターズカット ファイナル」の字幕版。
サイバーパンクといえば!といつも出てくるタイトルですね。
原作(というより原案)が「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」@1968 です。
作中では数十年後となる「2019年」が舞台となり、警官である主人公デッカードが、アンドロイド犯罪者を追う──というSFアクション作品。
機械であるアンドロイドが、持ち得るはずがないと考えられている「感情」を持ってまるで人間のように振る舞ったら ── もしくは、そういうふうに人間側が感じてしまったとしたら ── という、もはや古典的なSF感情がテーマとなっている内容です。
その展開の内容も分かりやすいもの。
アンドロイド犯罪者を殺す立場である警官デッカードはアンドロイドの娘レイチェルに惚れてしまい、また「人間の都合で奴隷として作られたアンドロイドの胸中」に同情心が芽生えながらも激しく戦う──、そして最後はアンドロイドの娘と逃亡する。
「まるで人間のようなアンドロイドを殺さなくてはならない」という立場から葛藤が生まれるというのは「電気羊」ならではですが、アンドロイドとのバトルという意味では当時でも親しみのあるテーマだったことと思います。
そんな中でもカルト的な人気作品となったのは、やはり世界観のデザインと描写でしょう。
日本モチーフについては、SF作品ではなぜか微妙によく出てくるけど、ここまで日本モチーフ推しだったとは知らなかったのでいちいち笑ってしまいました。w
他にも中国とか中央アジアのキャラも出てきます。たとえ国が分からなくても「無国籍」なのか「無秩序」な感じが、近未来感もしくは混沌とした感じが出ていていいですよね。
原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(以下「電気羊」)」では多国籍感はまったくなかったし(完全にアメリカ)、近未来ディストピアではあっても「無秩序に光り輝くネオンや鮮やかな電子広告」といったイメージは無かったので、まさにこの要素は映画オリジナルといっていいと思います。
その他、撮影スポットやセット、メカデザイン等についてもコアなファンがたくさんいるようです。矛盾や謎も含めて色々と考察になりうるポイントが多く、細かく考えだしたら止まらない作品でもありますね。
そういうのをまとめたファンによるWikiなんかもあって、だいたいの疑問はこちらを見ればすっきりしてしまいます。笑
個人的には原作との差分についてカッとなったので、後半で詳しく書いてみました。
その前に、時代背景も簡単におさらいしておきます。
ちなみに原作「電気羊」のレビューはこちら。
まず原作の1968年頃というのは、翌年にアポロ11号が月着陸したりドラえもんの連載が始まったりなど世界的に「宇宙」ネタが盛り上がっている時期ですね。さらに日本では東京五輪も終わってまもなくのイケイケ高度経済成長時代。世界は米ソ冷戦ではあるけれど、それでも技術革新による近未来に対する夢や希望に溢れている時代だったと思われます。
レイチェル・カーソン「沈黙の春」が1962年なので原作の6年前、日本でも水俣病の裁判が1967年ということで公害が話題になっていることからも、「人類の発展が地球や人間自身を蝕む」という発想が大衆にとっても身近なテーマになってきていたのだと思います。
本作が公開された1982年というのは原作の14年後にあたりますが、日本ではまさにバブルに入り始めるくらいの時期。
アメリカでは丁度この年に「国際宇宙ステーション計画」が発表され、翌年にはスターウォーズの三作目である「ジェダイの復讐」が公開されていますし、日本でもまだまだSF熱というのは十分に盛り上がっていた時期なのではないかなと思います。(SFは個人的には90年代~に失速という印象)
「AKIRA」が連載開始されたのもこの年ということで、どうやらカラフルな「サイバーパンクディストピア」的なビジュアルの発想はこの頃に確立しはじめたのではと思われます。(しらんけど)
さらに言えば、本作ブレードランナーやAKIRAの大友克洋が影響を受けたらしい「ダン・オバノンとメビウス(ジャン・ジロー)によって描かれた “The Long Tomorrow“@1976」というフランス漫画が、まさにそういう感じのようです[*]。
この「The Long Tomorrow」という作品、残念ながら日本語訳は無いようなのですが、ググって出てきたキャプチャを見る限りは、都市のゴミゴミしてカラフルな感じはまさしくで、しかしわりと優しくポップな色合いで描写されていますね。ずっと暗くて雨が降っている、みたいなのはブレードランナーのアレンジなのかもしれませんが、まさにそれが効いているということなのでしょう。
(作者「メビウス」氏は宮崎駿や大友克洋とも親交があったり、多くの人に影響を与えた方のようです。ナウシカはこの方の作品に影響を受けたのだと名言されているらしい[*])
ただ、原作を読んだときに「どんなふうに映像化したのかな」と楽しみにしていたポイントが全く触れられなかったりしてちょっぴりガッカリしたんですよね。
そのうちのいくつかについて心の叫びを書いておきます。
(以降本作は「ブレラン」、そして「レプリカント」は全部「アンドロイド」と書きます。)
ちなみに他のバージョンではデッカードのボイスオーバー(ナレーション)が入っていて、けっこうしっかり説明が入っているらしく[*]、そちらを観ていたとしたらもう少し別の感想になっていた可能性があります。ただ、それはそれで不評だったからディレクターズカット版で文字通り「カット」されたということらしいので、敢えて観ないまま続けます。
気になったのはこの7点。
リックがレイチェルと恋仲になるのが速い(そのためにリックはすでに離婚済だった)
レイチェルが脱走し、狙撃対象になるがリックは匿う(葛藤を描くのに分かりやすいので分からなくもない)
マーサーもしくはマーサー教は一切出てこない(これは原作でも最も難しいところなので仕方ない)
ルーバのくだりがない(これも尺の都合上カットしてもいいかな)
冒頭で8人のアンドロイドが何をしたかを説明してある(原作でははっきりと書かれている箇所は実はどこにも無い)
とかですね。
さて、では上記のガッカリ7点について。
原作での「まだまだ仕事を回してもらえない冴えない賞金稼ぎ」といううだつの上がらない感じが全く無いんですよね。リックは別に正義の警官ではなく、カネが欲しくてやってるだけの賞金稼ぎなんですよ。
ブレランのデッカードは「自ら離職していたけど、ベテランのお前にしか頼めないとわざわざ復職を願われる」という設定で始まります。
リックが「すでにアンドロイドを殺すことに葛藤がある自覚がある」のか、今は無くて作中を通してその葛藤を覚えていくのとでは全然違う作品になると思うのですが、ブレランはどうやら前者と考えてよさそうです。
離職していたのはアンドロイドを殺すこととは無関係な原因であって、ロイの死とかを通して後者を描いたじゃないか、という見方もできるはできるのですが、あまり「葛藤が無いところから芽生えた」感じではなく最初から最後までずーっと何かに憂いている感じだったので、素直に前者かなあと思いますね。
原作は後者です。カネが欲しいので、冒頭、ベテランであるホールデンが負傷して役回りがまわってきたことを喜んでる。そして任務の中で色々と葛藤に目覚めていくわけですね。
映画で丁寧にその気付きたちを描くのは尺が足りないでしょうから、「きっかけはレイチェルに惚れたこと」のところを取り出して目立たせるのはいいと思います。
ただ、恋愛的な動機に振り切りすぎているように見えるので、「アンドロイド全般」に対する想いとはちょっと別物という気がします。
極端に言うとブレランでは、「レイチェルは守るけど、他のアンドロイド全般を殺せないわけではない」とも思える内容なので、「きっかけはレイチェルだけどアンドロイド全般をもう俺は殺せない」という原作のリックとはやはり違います。
ロイに助けられたんじゃなく、咄嗟にロイを助けたんだったらだいぶ違ったと思うのですが…。
原作ではプリスというのは「レイチェル」でもあって、ちゃんと「人間を惑わして利用する」ために作られている、戦略ツールとしての綾波レイなのです。
ブレランではその設定が完全にカットされています。
レイチェルは「人間以上のものを作るための試作品」とタイレルに明言されていて、「過去の(偽装)記憶を移植されている」ことになっている。どうやらこの「過去の記憶が無いと分かると、心を持ち始めたアンドロイドはつらくなる」という理由で写真にこだわる、という描写がされているんですよね。
それ自体はSF的なテーマとして私も好きなのですが、原作では「他にも私がいる」ということからくる、私という個人なんて虚像だった、という打ちのめされ方をしているんです。
綾波レイは「私は他にもいるから」と淡々としていますが、電気羊のレイチェルはそれに気付くことで個人性の喪失に悩んだわけです。「同じ型の他のアンドロイドがいる」のではなく「レイチェル」という人格と役割設定自体がフレームなわけで、「全く同じ役割を与えられて『レイチェル』としてこの人生を歩まされたレイチェルが過去にも未来にもたくさんいる」。
ブレランでは「試作品として姪の記憶を移植された」という、わりとオリジナリティのある立場なんですよね。電気羊のレイチェルとはだいぶ違います。
まあ、好きになった子に似ている娘を殺さなくちゃいけない俺、というリック側の葛藤については、惚れるレイチェルと殺すレイチェルを合体して一人にしてしまったことで実現はしているというのが悔しいよねw
「うだつの上がらない男リック、けっこうやるやん!」とワクワクするシーン。
この駆け引きのシーンがないと「人間かどうかを見分けるのはめっちゃ難しい上にすげえ重要事項」ということが分からないと思うんですよね。
それにこのシーンは、タイレル社(原作ではローゼン協会)と警察や社会との関係もよく分かる名シーン。
だけどブレランではレイチェルがアンドロイドであるということをあっさりと認めます。
そして、サスペンスだったら絶対大事なはずの「フォークト=カンプフにかけないとアンドロイドかどうかが分からない」という要素が、以降、ほぼ出てきませんw デッカードは一体何しにタイレル社に行ったの?笑
ここだけではなくルーバとの「変質者ですわ!」の問答や、嘘つきガーランドやフィル・レッシュとのヒヤヒヤする会話が全然ないから・・・アクション映画なのでフォークト=カンプフなんて出す場所無かったのは分かるんですけどね。
原作でもイジドアは少々不思議な立ち位置ではあるので、どう扱ってくるのかなと気になっていたところ。
ブレランでもセバスチャンがロイとプリスを匿うという要素は同じですが、二人は「タイレルに直接会うために」わざわざ狙ってセバスチャンに会いに来るわけです。
この二人は原作では悪役っぽい感じはあんまり無いのでアクション映画としてはやりにくいってことで、より二人を悪役っぽい感じにするのは分かります。でもそれに引き摺られて、セバスチャンはただただ弄ばれた可哀想な天才って感じに。
原作におけるイジドアは「退廃した社会の犠牲者」としての役割もおそらくあるのですが、セバスチャンはよくわからない謎の持病のせいで寂しい生活をしている(しかも巨大企業の天才エンジニア)、という、あんまり退廃した社会と関係無さそうな設定なのももったいない。
でもあの尺でイジドアを出そうとしたらやりにくいのは間違いないので、「人間がアンドロイドを匿う」という要素をそうやって使うか!と関心もしていますw
動物を欲しがるのは主人公じゃなくてもいいんだけど(カッコよさが半減するだろうから)、「動物を飼うことがステータス」というのをもう少し表現してくれたらなとは思った。
「退廃した社会」というのをブレランでは街のゴミゴミしたヴィジュアルや雨で表現していると思うけど、イジドアが表現されなかったというのと同じで、やっぱりまだ「非情すぎる現実だからこその、そこに生きる人達の滑稽さ」が足りないというか。
ガーランドが言っていること(ポロコフのことを知らなかった等)を鵜呑みにすると8人の内訳も変わってくるし意味不明になるんですが、もう全部こいつの言っていることは法螺だとすれば多少マシになる。そんな迷惑おやじガーランド。
そりゃあ映画にはし辛いですし、画的にも確かに地味ですよ。なのでもちろんそのままやるのは無理だとは思ってましたが、でも、ここで出てくるフィルはいいキャラしてたのでもったいない。
警察も原作ほど違和感を感じる「お互いの警察が存在に気付いてない」みたいな壮大なのじゃなくていいんで、相手方に捕まってしまい…フィルと一緒に脱出、みたいなのがあると楽しかった。
フィルとお互いに検査しあうシーン、SF的にはすっごく見どころだと思うんですが、アクション映画としては地味なので仕方ないのかなぁ。
(しかもブレランではデッカードはアンドロイドだそうなので、検査しあってしまったら別のストーリーになってしまうんですけどね…。)
映画ではタイレル社の社長が、いわばアンドロイドたちの「生みの親であり天才」ということで出てきます。(原作にはそもそもこんな人いません)
で、ロイたちは彼に「俺らの寿命を伸ばせ」と直談判するために火星から逃亡してきた…ということになっています。
う~~~~ん。
原作でも、確かに寿命にあたるものは4年くらいだけど、それは「感情が芽生えるから人間が意図的に制御している」んじゃなくて「問題は代謝機能の問題よ。脳ユニットは関係ないわ。」ということなのですよね。
アンドロイドたちが切羽詰まって逃亡してくる動機としては分かりやすくてなるほどなと思いましたし、原作に対しても矛盾はしないとは思うのですが、これのよくないところは、「アンドロイドたちは一人の天才によって作られた」感が出てしまったことだと思うんですよ。
原作は、一人の天才が、というよりローゼン協会全体としてそういう神の所業みたいなことをやっていて、だからリックが逃亡アンドロイドを殺してもまたすぐに出てくるし、なんならガンガン改良型が次々と出てきて、もうフォークト=カンプフでも分からなくなるだろう、そうなったら人間社会はどうなるんだという「人間世界としての終焉」を描いているのですが、そういうのが無くなってしまう。
まあ、寿命があるのは人間様(主にタイレル)の意思だったわけでそれ以外は完璧だったということらしいから、もはやタイレルを殺したことでタイレル社が弱体化して「寿命ロックを外すことができるアンドロイドが増えれば人間世界は…」という「終焉の入り口」ということといえばそうなのかもしれません。。
そもそも「人間とアンドロイドの差分」についてジメジメと向き合い続ける原作とは世界観自体が違います。
原作は「人間の持つ共感の力だけはアンドロイドは創造できないのではないか」という示唆が最後まで残る。出てくるアンドロイドたちはみんな、おそらくいわゆる「感情」自体は持っているのですが、どうしても人間様とは違うところがある、それが共感の力なのでは、ということになってる。で「共感ってなんなんだ」ってことがずっと描かれているわけですよ。
それが「寿命と立場以外は完璧に人間であるアンドロイドが、寿命をなんとかしろ!と生みの親をぶっ殺す」という、ある意味分かりやす~い内容になってしまっている感じがする。
もう少し「電気羊」ならではの「アンドロイドとの差分に執着しているのは実は人間の方」というこの気持ち悪さがあったらもっとよかったかな。
以上!
「別作品」とわかりつつも、原作でいいなと思ったテーマを描いてくれたらもっとワクワクしたのにな、という7点でしたー。
批評というより個人的な趣向に沿ってるかどうかで書いたので、あしからず。(まあいつもそうだけど)
ブレラン単品で見れば、やっぱり世界観が出来上がりまくっているしいいなと思うんですよ。
シンプルに視覚に訴えかけることができるのが映画なわけで、きっちり印象深いヴィジュアルや世界観で描ききるのはやっぱりすごい。めちゃいいです。
原作はとにかく映画にしづらい描写のオンパレードだし、矛盾も多いし、要素はエンタメなんだけど割と画面が地味なシーンが多いからか人によってはつまらないと思うので、リック・デッカードとレイチェルの関係を拾ってエンタメ大作に仕上げ、サイバーパンクSFの金字塔として君臨しているのは本当に素晴らしいです。
私なんかが数十年後にこうやってゴチャゴチャ言えるのも、監督たちがそういう並々ならぬこだわりで作り込んだからであって、商業的にウケるからという理由でオーディエンスに媚びた作りになってない、それより製作陣の気色悪いくらいのこだわりを感じる。そういうのがまたイイんですよね。「おまえらこういうのが好きなんだろ」と適当に作られた感じがしたら、こんなに語る気になってないです。
これは上記の7点よりもさらに好みの問題な気がするので小言としました。
私が見たのは「ファイナル版 ディレクターズカット」だったのであまり露骨なシーンは無かった版らしいのですが、監督は本気でデッカードをアンドロイドにしようとしていたらしいのですよ[*]。(というか監督の中では本当にデッカードはアンドロイドらしい)
ガフの折り紙とか、その他諸々で微妙に示唆している内容になっているし、ユニコーンの夢のシーン?を撮り直すために主演のハリソンフォードを何度も呼びつけたりしていたのだとか。(それもバージョンが色々ある理由の一つ)
これは私は完全に反対派です。監督がそうだって言ってんだから反対ですて何やねんて感じですが、でも反対です・・・
もちろん原作がそうだからというのもあるんですが、この尺でそのどんでん返しをやったらめちゃくちゃチープになると思いませんか…。夢オチやりすぎて緊張感が無くなってしまった漫画みたいな。
そしてもう一つ、レイチェルとデッカードがいい感じになるシーン。
あれ、相手役のショーン・ヤングが「ガチで投げ飛ばされた」といって怒ってたらしい[*]。
ぶっちゃけぜんぜん「いい感じ」に見えなかったのは見間違いではなかったということだな。「脅迫やんけ」って思いましたもん初見時。
尺の関係でくっつくのが秒なのは仕方ないにしても、肝心のぐっと来るべきシーンが女性として全然グッと来なかったのよね。
というか、デッカードがレイチェルに惹かれる描写は分からなくもないのですが、レイチェル側からデッカードに惹かれる動機って「匿ってくれただけ」なんだよなぁ。
それでいきなり突き飛ばされてキスされて「キスしろて言えや」って、10年の恋も覚めますよ。。
「俺のところを出ていってお前はいくところがあるのか」っていう脅迫カードを持っている上でのそれですから、いや~~、、どうしてこんな・・・少女漫画だったら100%ボツです。(ドMな大人の女性はこういうのが好きな人もいるのかもしれませんが)
原作のレイチェルとリックは、惹かれ合う描写は甘めなんだけど、でもレイチェルは「監視」のためにリックに近づいていると明言するから目的が分かるし、何度も接触があるから「目的はソレだけど情も芽生えるよね」というのはとても理解できる。
ちゃんと二人が最後に複雑な気持ちで寝るのも理解できるわけですよ。
そういう一貫性がないように見えてしまうんだよね、ブレランのほうは。
視覚的に派手さのあるイベントの方にばかり目が行っていて、キャラクターたちがなぜ、どうしてそうしたのかの設定が…。
ブレランで一番共感しやすいのは実はロイ・ベティーだよね?w
以上ですw
いや~、語った!
次は2017年版を見て、またいろいろゴチャゴチャ言いたいと思います。笑 わくわく。
アマプラならそのまま観れます~。
サイバーパンクといえば!といつも出てくるタイトルですね。
原作(というより原案)が「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」@1968 です。
警察 × アンドロイド × サイバーディストピア近未来
簡単におさらい。もちろんネタバレしています。作中では数十年後となる「2019年」が舞台となり、警官である主人公デッカードが、アンドロイド犯罪者を追う──というSFアクション作品。
機械であるアンドロイドが、持ち得るはずがないと考えられている「感情」を持ってまるで人間のように振る舞ったら ── もしくは、そういうふうに人間側が感じてしまったとしたら ── という、もはや古典的なSF感情がテーマとなっている内容です。
その展開の内容も分かりやすいもの。
アンドロイド犯罪者を殺す立場である警官デッカードはアンドロイドの娘レイチェルに惚れてしまい、また「人間の都合で奴隷として作られたアンドロイドの胸中」に同情心が芽生えながらも激しく戦う──、そして最後はアンドロイドの娘と逃亡する。
「まるで人間のようなアンドロイドを殺さなくてはならない」という立場から葛藤が生まれるというのは「電気羊」ならではですが、アンドロイドとのバトルという意味では当時でも親しみのあるテーマだったことと思います。
そんな中でもカルト的な人気作品となったのは、やはり世界観のデザインと描写でしょう。
- ずっと夜もしくは地下都市等の設定でとにかくずっと(薄)暗い
- ずっと雨や霧
- 未来的な乗り物等が出てきて人工的かつ近未来的
- 無秩序にカラフルに光り輝くネオンや電子公告
- 多国籍(様々な言語や文化っぽいものが混在している)
- ゴミゴミ密集していてお世辞にもきれいな街とは言えない
日本モチーフについては、SF作品ではなぜか微妙によく出てくるけど、ここまで日本モチーフ推しだったとは知らなかったのでいちいち笑ってしまいました。w
他にも中国とか中央アジアのキャラも出てきます。たとえ国が分からなくても「無国籍」なのか「無秩序」な感じが、近未来感もしくは混沌とした感じが出ていていいですよね。
原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(以下「電気羊」)」では多国籍感はまったくなかったし(完全にアメリカ)、近未来ディストピアではあっても「無秩序に光り輝くネオンや鮮やかな電子広告」といったイメージは無かったので、まさにこの要素は映画オリジナルといっていいと思います。
その他、撮影スポットやセット、メカデザイン等についてもコアなファンがたくさんいるようです。矛盾や謎も含めて色々と考察になりうるポイントが多く、細かく考えだしたら止まらない作品でもありますね。
そういうのをまとめたファンによるWikiなんかもあって、だいたいの疑問はこちらを見ればすっきりしてしまいます。笑
個人的には原作との差分についてカッとなったので、後半で詳しく書いてみました。
その前に、時代背景も簡単におさらいしておきます。
ちなみに原作「電気羊」のレビューはこちら。
時代背景のおさらい
映画公開当時の1982年というのはどういう感じだったのでしょうか。まず原作の1968年頃というのは、翌年にアポロ11号が月着陸したりドラえもんの連載が始まったりなど世界的に「宇宙」ネタが盛り上がっている時期ですね。さらに日本では東京五輪も終わってまもなくのイケイケ高度経済成長時代。世界は米ソ冷戦ではあるけれど、それでも技術革新による近未来に対する夢や希望に溢れている時代だったと思われます。
レイチェル・カーソン「沈黙の春」が1962年なので原作の6年前、日本でも水俣病の裁判が1967年ということで公害が話題になっていることからも、「人類の発展が地球や人間自身を蝕む」という発想が大衆にとっても身近なテーマになってきていたのだと思います。
本作が公開された1982年というのは原作の14年後にあたりますが、日本ではまさにバブルに入り始めるくらいの時期。
アメリカでは丁度この年に「国際宇宙ステーション計画」が発表され、翌年にはスターウォーズの三作目である「ジェダイの復讐」が公開されていますし、日本でもまだまだSF熱というのは十分に盛り上がっていた時期なのではないかなと思います。(SFは個人的には90年代~に失速という印象)
「AKIRA」が連載開始されたのもこの年ということで、どうやらカラフルな「サイバーパンクディストピア」的なビジュアルの発想はこの頃に確立しはじめたのではと思われます。(しらんけど)
さらに言えば、本作ブレードランナーやAKIRAの大友克洋が影響を受けたらしい「ダン・オバノンとメビウス(ジャン・ジロー)によって描かれた “The Long Tomorrow“@1976」というフランス漫画が、まさにそういう感じのようです[*]。
この「The Long Tomorrow」という作品、残念ながら日本語訳は無いようなのですが、ググって出てきたキャプチャを見る限りは、都市のゴミゴミしてカラフルな感じはまさしくで、しかしわりと優しくポップな色合いで描写されていますね。ずっと暗くて雨が降っている、みたいなのはブレードランナーのアレンジなのかもしれませんが、まさにそれが効いているということなのでしょう。
(作者「メビウス」氏は宮崎駿や大友克洋とも親交があったり、多くの人に影響を与えた方のようです。ナウシカはこの方の作品に影響を受けたのだと名言されているらしい[*])
原作との違い
さて、「原作というより原案」と言われるほどストーリーが別物なので、差分を上げたらきりがないです。それに別作品のSFとして捉えれば、ブレードランナーは素晴らしいSFアクション映画。ただ、原作を読んだときに「どんなふうに映像化したのかな」と楽しみにしていたポイントが全く触れられなかったりしてちょっぴりガッカリしたんですよね。
そのうちのいくつかについて心の叫びを書いておきます。
(以降本作は「ブレラン」、そして「レプリカント」は全部「アンドロイド」と書きます。)
ちなみに他のバージョンではデッカードのボイスオーバー(ナレーション)が入っていて、けっこうしっかり説明が入っているらしく[*]、そちらを観ていたとしたらもう少し別の感想になっていた可能性があります。ただ、それはそれで不評だったからディレクターズカット版で文字通り「カット」されたということらしいので、敢えて観ないまま続けます。
気になったのはこの7点。
- 1.リックデッカードが警官(原作では「俺は警察じゃない」と何度も言う)
- 2.プリスが「レイチェル」でない
- 3.エルドンとの駆け引きがない
- 4.セバスチャン(イジドア)がピンボケどころか天才
- 5.「高額を支払ってでも動物を飼いたい」という滑稽な欲望が一切出てこない
- 6.ガーランドとフィル・レッシュが一切出てこない
- 7.ロイたちがタイレル(原作では出てこない)を殺す
さて、では上記のガッカリ7点について。
1.リックデッカードが警官
まずはこれです。原作での「まだまだ仕事を回してもらえない冴えない賞金稼ぎ」といううだつの上がらない感じが全く無いんですよね。リックは別に正義の警官ではなく、カネが欲しくてやってるだけの賞金稼ぎなんですよ。
ブレランのデッカードは「自ら離職していたけど、ベテランのお前にしか頼めないとわざわざ復職を願われる」という設定で始まります。
リックが「すでにアンドロイドを殺すことに葛藤がある自覚がある」のか、今は無くて作中を通してその葛藤を覚えていくのとでは全然違う作品になると思うのですが、ブレランはどうやら前者と考えてよさそうです。
離職していたのはアンドロイドを殺すこととは無関係な原因であって、ロイの死とかを通して後者を描いたじゃないか、という見方もできるはできるのですが、あまり「葛藤が無いところから芽生えた」感じではなく最初から最後までずーっと何かに憂いている感じだったので、素直に前者かなあと思いますね。
原作は後者です。カネが欲しいので、冒頭、ベテランであるホールデンが負傷して役回りがまわってきたことを喜んでる。そして任務の中で色々と葛藤に目覚めていくわけですね。
映画で丁寧にその気付きたちを描くのは尺が足りないでしょうから、「きっかけはレイチェルに惚れたこと」のところを取り出して目立たせるのはいいと思います。
ただ、恋愛的な動機に振り切りすぎているように見えるので、「アンドロイド全般」に対する想いとはちょっと別物という気がします。
極端に言うとブレランでは、「レイチェルは守るけど、他のアンドロイド全般を殺せないわけではない」とも思える内容なので、「きっかけはレイチェルだけどアンドロイド全般をもう俺は殺せない」という原作のリックとはやはり違います。
ロイに助けられたんじゃなく、咄嗟にロイを助けたんだったらだいぶ違ったと思うのですが…。
2.プリスが「レイチェル」でない
そしてこれ。「プリス」は出てくるけどレイチェルとは無関係のただのヤンキーおねいちゃんになってるので…。原作ではプリスというのは「レイチェル」でもあって、ちゃんと「人間を惑わして利用する」ために作られている、戦略ツールとしての綾波レイなのです。
ブレランではその設定が完全にカットされています。
レイチェルは「人間以上のものを作るための試作品」とタイレルに明言されていて、「過去の(偽装)記憶を移植されている」ことになっている。どうやらこの「過去の記憶が無いと分かると、心を持ち始めたアンドロイドはつらくなる」という理由で写真にこだわる、という描写がされているんですよね。
それ自体はSF的なテーマとして私も好きなのですが、原作では「他にも私がいる」ということからくる、私という個人なんて虚像だった、という打ちのめされ方をしているんです。
綾波レイは「私は他にもいるから」と淡々としていますが、電気羊のレイチェルはそれに気付くことで個人性の喪失に悩んだわけです。「同じ型の他のアンドロイドがいる」のではなく「レイチェル」という人格と役割設定自体がフレームなわけで、「全く同じ役割を与えられて『レイチェル』としてこの人生を歩まされたレイチェルが過去にも未来にもたくさんいる」。
ブレランでは「試作品として姪の記憶を移植された」という、わりとオリジナリティのある立場なんですよね。電気羊のレイチェルとはだいぶ違います。
まあ、好きになった子に似ている娘を殺さなくちゃいけない俺、というリック側の葛藤については、惚れるレイチェルと殺すレイチェルを合体して一人にしてしまったことで実現はしているというのが悔しいよねw
3.エルドンとの駆け引きがない
ここは正直、序盤で一番グッときた展開だったのでぜひ入れてほしかった。「うだつの上がらない男リック、けっこうやるやん!」とワクワクするシーン。
この駆け引きのシーンがないと「人間かどうかを見分けるのはめっちゃ難しい上にすげえ重要事項」ということが分からないと思うんですよね。
それにこのシーンは、タイレル社(原作ではローゼン協会)と警察や社会との関係もよく分かる名シーン。
だけどブレランではレイチェルがアンドロイドであるということをあっさりと認めます。
そして、サスペンスだったら絶対大事なはずの「フォークト=カンプフにかけないとアンドロイドかどうかが分からない」という要素が、以降、ほぼ出てきませんw デッカードは一体何しにタイレル社に行ったの?笑
ここだけではなくルーバとの「変質者ですわ!」の問答や、嘘つきガーランドやフィル・レッシュとのヒヤヒヤする会話が全然ないから・・・アクション映画なのでフォークト=カンプフなんて出す場所無かったのは分かるんですけどね。
4.セバスチャン(イジドア)がピンボケどころか天才
これについては、ガッカリしつつもなるほどなと思っちゃいました。尺の都合もあるしね。原作でもイジドアは少々不思議な立ち位置ではあるので、どう扱ってくるのかなと気になっていたところ。
ブレランでもセバスチャンがロイとプリスを匿うという要素は同じですが、二人は「タイレルに直接会うために」わざわざ狙ってセバスチャンに会いに来るわけです。
この二人は原作では悪役っぽい感じはあんまり無いのでアクション映画としてはやりにくいってことで、より二人を悪役っぽい感じにするのは分かります。でもそれに引き摺られて、セバスチャンはただただ弄ばれた可哀想な天才って感じに。
原作におけるイジドアは「退廃した社会の犠牲者」としての役割もおそらくあるのですが、セバスチャンはよくわからない謎の持病のせいで寂しい生活をしている(しかも巨大企業の天才エンジニア)、という、あんまり退廃した社会と関係無さそうな設定なのももったいない。
でもあの尺でイジドアを出そうとしたらやりにくいのは間違いないので、「人間がアンドロイドを匿う」という要素をそうやって使うか!と関心もしていますw
5.「高額を支払ってでも動物を飼いたい」という滑稽な欲望が一切出てこない
確かにこれも映画にはしにくい! でも、「生身のペットなんて高くて買えない」程度の話じゃなくて、財産叩いてもいいくらいの、喉から手が出るほど欲しいのが本物の動物ペットなのである、という「電気羊」ならではの滑稽さ、退廃感が全カットになってるのはちょっと残念だったかな。動物を欲しがるのは主人公じゃなくてもいいんだけど(カッコよさが半減するだろうから)、「動物を飼うことがステータス」というのをもう少し表現してくれたらなとは思った。
「退廃した社会」というのをブレランでは街のゴミゴミしたヴィジュアルや雨で表現していると思うけど、イジドアが表現されなかったというのと同じで、やっぱりまだ「非情すぎる現実だからこその、そこに生きる人達の滑稽さ」が足りないというか。
6.ガーランドとフィル・レッシュが一切出てこない
原作でも矛盾オンパレードのガーランド篇。ガーランドが言っていること(ポロコフのことを知らなかった等)を鵜呑みにすると8人の内訳も変わってくるし意味不明になるんですが、もう全部こいつの言っていることは法螺だとすれば多少マシになる。そんな迷惑おやじガーランド。
そりゃあ映画にはし辛いですし、画的にも確かに地味ですよ。なのでもちろんそのままやるのは無理だとは思ってましたが、でも、ここで出てくるフィルはいいキャラしてたのでもったいない。
警察も原作ほど違和感を感じる「お互いの警察が存在に気付いてない」みたいな壮大なのじゃなくていいんで、相手方に捕まってしまい…フィルと一緒に脱出、みたいなのがあると楽しかった。
フィルとお互いに検査しあうシーン、SF的にはすっごく見どころだと思うんですが、アクション映画としては地味なので仕方ないのかなぁ。
(しかもブレランではデッカードはアンドロイドだそうなので、検査しあってしまったら別のストーリーになってしまうんですけどね…。)
7.ロイたちがタイレル(原作では出てこない)を殺す
これ!! これはだめです!!! ※個人の感想です映画ではタイレル社の社長が、いわばアンドロイドたちの「生みの親であり天才」ということで出てきます。(原作にはそもそもこんな人いません)
で、ロイたちは彼に「俺らの寿命を伸ばせ」と直談判するために火星から逃亡してきた…ということになっています。
う~~~~ん。
原作でも、確かに寿命にあたるものは4年くらいだけど、それは「感情が芽生えるから人間が意図的に制御している」んじゃなくて「問題は代謝機能の問題よ。脳ユニットは関係ないわ。」ということなのですよね。
アンドロイドたちが切羽詰まって逃亡してくる動機としては分かりやすくてなるほどなと思いましたし、原作に対しても矛盾はしないとは思うのですが、これのよくないところは、「アンドロイドたちは一人の天才によって作られた」感が出てしまったことだと思うんですよ。
原作は、一人の天才が、というよりローゼン協会全体としてそういう神の所業みたいなことをやっていて、だからリックが逃亡アンドロイドを殺してもまたすぐに出てくるし、なんならガンガン改良型が次々と出てきて、もうフォークト=カンプフでも分からなくなるだろう、そうなったら人間社会はどうなるんだという「人間世界としての終焉」を描いているのですが、そういうのが無くなってしまう。
まあ、寿命があるのは人間様(主にタイレル)の意思だったわけでそれ以外は完璧だったということらしいから、もはやタイレルを殺したことでタイレル社が弱体化して「寿命ロックを外すことができるアンドロイドが増えれば人間世界は…」という「終焉の入り口」ということといえばそうなのかもしれません。。
そもそも「人間とアンドロイドの差分」についてジメジメと向き合い続ける原作とは世界観自体が違います。
原作は「人間の持つ共感の力だけはアンドロイドは創造できないのではないか」という示唆が最後まで残る。出てくるアンドロイドたちはみんな、おそらくいわゆる「感情」自体は持っているのですが、どうしても人間様とは違うところがある、それが共感の力なのでは、ということになってる。で「共感ってなんなんだ」ってことがずっと描かれているわけですよ。
それが「寿命と立場以外は完璧に人間であるアンドロイドが、寿命をなんとかしろ!と生みの親をぶっ殺す」という、ある意味分かりやす~い内容になってしまっている感じがする。
もう少し「電気羊」ならではの「アンドロイドとの差分に執着しているのは実は人間の方」というこの気持ち悪さがあったらもっとよかったかな。
以上!
「別作品」とわかりつつも、原作でいいなと思ったテーマを描いてくれたらもっとワクワクしたのにな、という7点でしたー。
批評というより個人的な趣向に沿ってるかどうかで書いたので、あしからず。(まあいつもそうだけど)
ブレラン単品で見れば、やっぱり世界観が出来上がりまくっているしいいなと思うんですよ。
シンプルに視覚に訴えかけることができるのが映画なわけで、きっちり印象深いヴィジュアルや世界観で描ききるのはやっぱりすごい。めちゃいいです。
原作はとにかく映画にしづらい描写のオンパレードだし、矛盾も多いし、要素はエンタメなんだけど割と画面が地味なシーンが多いからか人によってはつまらないと思うので、リック・デッカードとレイチェルの関係を拾ってエンタメ大作に仕上げ、サイバーパンクSFの金字塔として君臨しているのは本当に素晴らしいです。
私なんかが数十年後にこうやってゴチャゴチャ言えるのも、監督たちがそういう並々ならぬこだわりで作り込んだからであって、商業的にウケるからという理由でオーディエンスに媚びた作りになってない、それより製作陣の気色悪いくらいのこだわりを感じる。そういうのがまたイイんですよね。「おまえらこういうのが好きなんだろ」と適当に作られた感じがしたら、こんなに語る気になってないです。
小言2つ:デッカードレプリカント説、「キスして」シーン
最後に言いたい小言が2つある。。。これは上記の7点よりもさらに好みの問題な気がするので小言としました。
私が見たのは「ファイナル版 ディレクターズカット」だったのであまり露骨なシーンは無かった版らしいのですが、監督は本気でデッカードをアンドロイドにしようとしていたらしいのですよ[*]。(というか監督の中では本当にデッカードはアンドロイドらしい)
ガフの折り紙とか、その他諸々で微妙に示唆している内容になっているし、ユニコーンの夢のシーン?を撮り直すために主演のハリソンフォードを何度も呼びつけたりしていたのだとか。(それもバージョンが色々ある理由の一つ)
これは私は完全に反対派です。監督がそうだって言ってんだから反対ですて何やねんて感じですが、でも反対です・・・
もちろん原作がそうだからというのもあるんですが、この尺でそのどんでん返しをやったらめちゃくちゃチープになると思いませんか…。夢オチやりすぎて緊張感が無くなってしまった漫画みたいな。
そしてもう一つ、レイチェルとデッカードがいい感じになるシーン。
あれ、相手役のショーン・ヤングが「ガチで投げ飛ばされた」といって怒ってたらしい[*]。
ぶっちゃけぜんぜん「いい感じ」に見えなかったのは見間違いではなかったということだな。「脅迫やんけ」って思いましたもん初見時。
尺の関係でくっつくのが秒なのは仕方ないにしても、肝心のぐっと来るべきシーンが女性として全然グッと来なかったのよね。
というか、デッカードがレイチェルに惹かれる描写は分からなくもないのですが、レイチェル側からデッカードに惹かれる動機って「匿ってくれただけ」なんだよなぁ。
それでいきなり突き飛ばされてキスされて「キスしろて言えや」って、10年の恋も覚めますよ。。
「俺のところを出ていってお前はいくところがあるのか」っていう脅迫カードを持っている上でのそれですから、いや~~、、どうしてこんな・・・少女漫画だったら100%ボツです。(ドMな大人の女性はこういうのが好きな人もいるのかもしれませんが)
原作のレイチェルとリックは、惹かれ合う描写は甘めなんだけど、でもレイチェルは「監視」のためにリックに近づいていると明言するから目的が分かるし、何度も接触があるから「目的はソレだけど情も芽生えるよね」というのはとても理解できる。
ちゃんと二人が最後に複雑な気持ちで寝るのも理解できるわけですよ。
そういう一貫性がないように見えてしまうんだよね、ブレランのほうは。
視覚的に派手さのあるイベントの方にばかり目が行っていて、キャラクターたちがなぜ、どうしてそうしたのかの設定が…。
ブレランで一番共感しやすいのは実はロイ・ベティーだよね?w
以上ですw
いや~、語った!
次は2017年版を見て、またいろいろゴチャゴチャ言いたいと思います。笑 わくわく。
アマプラならそのまま観れます~。