ジェイムズ・P・ホーガン / ガニメデの優しい巨人(The Gentle Giants of Ganymede)

2023-11-06science - fiction SF, social 社会ジェイムズ・P・ホーガン

ジェイムズ・P・ホーガンの「巨人の星」シリーズ三部作の二部作目です。

名作として名高い一作目「星を継ぐもの」はこちら

さらに三部作の最終作にあたる次作「巨人たちの星」はこちら

「前作で発見された人類史の大いなる発見に続き、本作ではついにその当事者と邂逅。そして謎はさらに具体的に解明されていく」


異星人とのファーストコンタクトから見えてくる「答えの続き」

前作「星を継ぐもの」は、5万年前の宇宙服の人間「チャーリー」の謎を解き明かす、というスタイルで、人間同士の議論が謎を解明していくミステリータイプの話でした。
地球に危機が訪れるわけでもないし、生きている宇宙人や世界と邂逅することもない、いわば「地味」な前作がなぜSFとして素晴らしいのかは、前回のレビューをどうぞ。

それと比べて本作は、宇宙人との邂逅が描かれます。

突如、未確認飛行物体が捉えられ、遠くの地球であーだこーだと言っている政治家は動きがおそすぎて、現地に居合わせた科学者たちがその対応に奔走する。
それは人類より遥かに技術の進歩した、合理的すぎる故に「戦う」「騙す」等の概念が欠落した、優しい巨人ガニメアン。
しかし、彼ら宇宙人は実は時空に取り残された難破船の乗員だった…。


というわけで、宇宙人とのファーストコンタクトSFです。
そういうエッセンスだけで見れば、三部作の中で実はこれが1番大衆SFっぽいのですが、「本当に異星人と邂逅して、こんなに平和に事が進むのか?」というくらい、最後までとにかく平和に進みます。人類社会と異星人が出会うという話なので、半分くらいは政治風味ですね。
しかし「宇宙人と邂逅する」という派手な展開のバックグラウンドでは「ガニメアンは人類に何を隠しているのか?」という謎が展開されていきます。

前作「星を継ぐもの」では、誰が読んでも真相が気になる「大いなる謎」が最初に提示されて、その解明に向かって物語が展開するというキャッチーな構成でした。
「月で、5万年前の人間が、宇宙服を着たまま亡くなっていた」と言われれば、誰が聞いても「どういうこと!?」となりますよね。
そしてハントたちと一緒にミスリードされていた読者は、最後の発想の転換で「なるほど!」となるわけです。

本作も物語の最後に「そういうことだったのか!」という展開があります。
ただ、それは「星を継ぐもの」で真相の大筋は分かったが、辻褄が合わないところがある…という謎に対するものであり、しかも「謎の解明」という筋に沿って物語が展開するというよりも「異星人と邂逅する」方に派手さがあり、その過程で謎が分かってしまった、という流れのため、キャッチーさは前作と比べて弱いです。

しかし、これが「3部作」の「2部作目」たる所以。
前作で発見された人類史の大いなる発見に続き、本作ではついにその「当事者」と邂逅。そして謎はさらに具体的に解明されていく。
ラストで難破船の乗員であった彼らガニメアンは、無謀を承知で母星を探す旅に出戻ることになります。せっかく出会い、地球レベルで友好的な関係を築くことができた「宇宙の友人」が去ってしまう…という郷愁は、往来のSFでも鉄板の流れ。
けれどそこに、「答えの続き」を置き土産していく、しかもやはりそれは与えられる答えではなく、ハントとダンチェッカーの思考によるもの

このお洒落さ、たまりませんよね…。

さらにこれが三部作目に繋がる重要な布石にもなっていきます。


作者のフェチ「良心と合理性で間違いを侵さなかった人類」

この2部作目、このあたりからようやく、作者「ジェームズ・P・ホーガン」氏のフェチがだんだん見えてきます。
三作目「巨人たちの星」を読んだ時にそのフェチは間違いないと確信したわけですが、「卑しいところもある人類が、合理的に、合理的な世界に邂逅したとしたら」という、科学者の妄想を描いているわけです。
そしてそれに対して「良心と合理性を持って、ぎりぎり間違いを侵さなかった人類(社会)」が描かれる。
しかも大事なところでそれに影響を与えるのが「良心と合理性に富んだ主人公」。
これがいわば作者の「フェチ」だと思うんですよね。

SFでも色々とタイプがあって、政治的や大衆の動きといった側面にあまりフォーカスせずに、そういった邂逅を描く作品もあります。
どちらがより良いとかいう話ではないわけですが、このホーガン氏、それを書くのが好きです。

しかも、三国志や銀河英雄伝説のような、(物語が神様視点で進む)ヒストリカルバトルものとはまた違い、「醜い人類同士の争い」のようなものを描きません。また、SFって思考実験の一つでもあるので、「良くないほう」の仮定を描いて読者や社会に問題提起する、というタイプの作品もとても多いですが、この作品はそういう流れがあっても「ぎりぎり良心と理性が勝つ」展開なのです。

作者がいかに科学者や人類(社会)にポジティブな期待をしているのか、愛しいくらいに溢れているんですよね。

そいういうの、すっごく好きです。私は。


実はこの作品を読んでいる最中、ず~っと頭に浮かんでいる本がありました。

入江昭 / 歴史家が見る現代世界

この入江さんという方は歴史学者であって科学者ではないのですが、理想としている方向性はこのホーガン氏とかなり似ていると思うんですよね。
かたや実在の歴史学者、かたや理系SF作家が、この理想の世界で同じ方を向いている、ってエモいと思いませんか。


ま、「そんな理想だけで生きていけるわけないだろ」「人間なんて所詮、殺し合い奪い合う生き物なんだ」みたいな現実主義者っぽい方からすると都合の良すぎるフィクションなのかもしれませんが、手段はともかく、理想を捨てたらそれは文明社会じゃないと思うから、「ぎりぎり理想を守れたお話」として清々しい気持ちになれる本作、めちゃくちゃいいと思うんだよなぁ。


そういえば「ゾラック」(AIの話)

そうそう。
今となっては新鮮さが無くてすっかり言及するのを忘れていましたが、ガニメアンたちは「人類より遥かに技術の進歩」しており、「ゾラック」というAIが登場します。
「ゾラック」は、一言で言えば 暴走しないHAL9000 のようなもの。
「HAL9000」は、かの有名な「2001年宇宙の旅」に登場する、「自ら考える事ができ、まるで生きているかのように会話ができる」タイプのAIですね。

確かゾラックは「機体に搭載されたAI」というよりは「インターネットそのものに存在するAI」という感じですが、本作でのゾラックは母星の文明と切り離されている状態なので、まあ機体に搭載されたAI、と考えて差し支えないでしょう。

でもやはり1968年の「2001年宇宙の旅」より10年時代が進んでいるからでしょうか(本作は1978年の作品)、ゾラックはHAL9000よりずっと今っぽいというか、「機械が意思を持ったらどうなるの?」「AI 対 我々」みたいな古典的なニュアンスはほとんど描かれず、まさに、スキルフルな良き友人として描かれます。

これも、作者のフェチの一つだと思うんですよね。

反乱を起こすAIやそれを疑う我々、ではなく、当たり前のように社会に溶け込み、そしてそれを十分に信頼して享受する利用者。

いいですねぇ。理想に溢れています。



最後に余談ですが、この「池 央耿」という訳者さん、め ちゃ く ちゃ イ イ です。

ホーガン氏の描写自体、素敵というか私はおそらく好きなのですが、それをなんでこんなにお洒落に訳せるの!? というくらい、訳がめっちゃよいです。

ちょっと難解な単語や感じを使ったりもするのですが、それも含めて「んんんん~~~~~いい~~~~~」と言いながら読んでおりました。。笑