東 浩紀 / ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる

クイック本(さくっと読める), manage-strat 経営・戦略・思考, non-fiction ノンフィクション

偶然目にしたPRESIDENT Onlineのインタビュー記事「TwitterやYouTubeで『知の観客』をつくることはできない」と「これからの知識人は"もの書き"より"話し手"に変わっていく」を読んで、面白そうだなと思って購入。

サクッと読めて、そしてちょっと元気が出る。良い本です。


ちょっと勇気をもらえる悟りエッセー

東氏は若くして有名になった批評家だそうだ。
哲学者とか書評家とか文筆家とか、そういう分類については正直よく分かりませんが、できる限り真摯に丁寧に「ことば」による世の中の整頓や分析をするひとたち、という認識をしていて、きっといろいろなシーンでお世話になっているはず。

東氏もよく知らないながらもTwitterはなにかの拍子にフォローしていたので、五反田で「ゲンロンカフェ」というのがある、(資本的)中立を掲げている、くらいのことは知ってました。
本書を読んで雰囲気は分かったので、興味のあるテーマがあれば配信でも現地でも(今はコロナで現地は以下略)行ってみたいですね。


さて本書は、小難しい話なしに、東氏が経営する(していた)ゲンロンという組織の変遷とともに、ご自身が経験してきたこと、学んだこと等が語られていきます。
「起業エッセー」なので、まあ言ってしまえばよくあるサクセスストーリーでもあります。
でもそれを殊更強調するものでもなく、アツくてカッコイイサクセスが待っているわけでもなく、失敗し続けて、で、やっとちょっと悟ってきました、みたいな内容。
それがリアルだから読みやすいし、ちょっぴり勇気をもらえるんですよね。


そういえば、エッセーはいわば「長めのブログ(書き手の個人的な話や主観が語られる)」なので、私は書き手に強い興味がある時しか手に取らないのですが、今回は少し違います。
上記の記事で東氏自身は「やるならやってもいいですけど売れないと思いますよ」「表紙に顔載せるの反対した」とか書いてあって「不特定大多数の人に僕の経験を積極的に知ってもらいたい圧」をあんまり感じなかったので手に取る気になったんですよ。
だって、よく知らない人の「僕のこのすごい経験きいてよ!」と偉そうに書いてある本なんて見たくないですもん。

周囲が「本にしたら面白い」と進めて出版が実現した、本人は売れないと思ってた、いいですよね。そういうの。
その「周囲」ってのがちょっと無責任だったり、ビジネスの実力も勘所も無い人だったりすると大コケすることもあるのでしょうが、そうでないなら良い意味での「誤配」になりうるということなのでしょう。

でもやっぱり私は本屋で、おぢさんが顔出して「俺の会社の戦記」「三国志のように面白い」とか書いてある表紙を見ていたら、「はいはい。自己主張の激しいおぢさんが自分のサクセスストーリーを偉そうに書くやつでしょ。」と思って絶対に買ってないですw


いっけん本質的でないことこそ本質

さて、ぐっと来たポイントいくつか振り返っておきます。
引用以外は私の理解で言葉を変えて書いています。

東氏に言わせると、この一言に集約できるかも、と。
なにか新しいことを実現するためには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる
抽象的すぎてこれだけだと「みつを」かなって感じですね。

理想をもって起業をしたが、肝心の経営(経理)を他人に任せていたら何度も大失敗した

「若手論客の活躍の場を作る」という理想を持ち、顔を出していたメディアでも偉そうな事を言っていたが、経営を任せっきりにしていた社員が横領していたことに気付けなかったり、やはり経理を任せっきりにしていた社員が領収書の管理さえできていなかった、無計画にアルバイトを雇いすぎてて会計を圧迫していた、みたいなことが何度もあった。

そして社員が途中で投げだした処理を自分でやるしかなくなり、クシャクシャになった領収書をエクセルに手打ちしながら「人間は地道に行きねばらならん」と気がついた。

それまでは「研究所を名乗るなら研究者が主体であるべきで、事務職員こそ外注で賄うべき」と思っていた、研究者やクリエイターだけが重要で事務はしょせん補助だというような発想だった。が、会社の本体はむしろ事務にある、と気がついた。

なるほど、これは大企業病にもある話かなと思います。
総務や事務を「あいつらただの金食い虫」「大事なことは全部俺らがやってる」と軽視し、その仕組や土台の中で一部分を任されている立場だからこそ発揮させてもらえる能力を、全て自分の実力だと勘違いしている。
逆に、中小企業活動(の経営に近い立場で活動)をしている人は、身を持ってこのあたりの大切さを分かっているんじゃないでしょうか。

ぼくは世間では、Twitterで炎上してるね、たいへんだねなんて声をかけられることが多いのですが、その時期に炎上なんてどうでもいいと感じるようになりました。
SNSでバズってもお金になるわけじゃないし、逆に批判されても借金が増えるわけじゃない。
問題は資金繰りであって、そっちのほうがよほどリアルです。

そういえば、いわゆる高学歴インテリに対して、部屋の掃除や整頓や自炊、保険の見直しや町内会の雑務や…そういう「生活」活動を全然しないと、プロダクトを考える時に全然ユーザー目線に立てなくなるよ、という話なんかも聞いたことありますが、これと似た話なんじゃないかと思います。


クラウドで良いと思っていたが、「紙」の意義に気付いて印刷してファイリングした

最初は、オフィスもなくていいし書類はクラウドでいいし、という考え方でやっていたが、結局オフィスを構えて、そして印刷してファイリングしラベルを貼って棚に並べるという作業をわざわざする。
ファイルはたしかにデジタルでクラウドにおいてもいい。
けれども、それだけでは社員は仕事の存在を忘れてしまうのです。
契約書や経理書類を紙に印刷し、目に見えるものとして棚に並べるのは、仕事があることを思い出させ続けるためだと思います。
なるほど。
私は電子書籍より紙の本が好きで、目に見える箇所に本を並べておきたいタイプです。仕舞いたくない。
その理由は「存在感の問題」≒「所有の満足や、視界に入ることで内容や感動・気付きを思い出すから」です。

でも仕事では今は完全なリモートワークだし、事務所にも殆ど行かないし、書類もなんもかんも全てクラウドにしはじめています。
思考したり議論するときは「文章」じゃなく、概念を話し合うので図や配置などをゴリゴリ書ける紙のほうが圧倒的にやりやすいのですが(同じ理由で速記の議事録も大きいノートにゴリゴリ書いたほうがいい)、定型的な書類ならクラウドで十分だなと感じているところです。

でも、それは面倒な経営処理を全て自分でイチからやってきた社長、そしてそれをしっかり引き継いで責任を持ってやってくれている総務の方がいるからであって、最初っから(しかも慣れない人が)クラウドにしていたら「経営の身体が立ち上がりにくい」というのは、そうなんだろうなと思います。
仕事をひとに任せるためには、現場でいちどそれを経験しておかないといけない。
そうでないと、なにを任せているのかもよくわからないまま、ただ任せるだけになってしまうからです。
それはほんとうは任せているんじゃない。単純に見たくないものを見ないようにしているだけであり、面倒なことから目を逸しているだけなんです。

合理性と効率性への理想が、クリエイティブを阻害しているのかもしれない

こうやって書くと、どこかで誰かがドヤ顔で言っていそうな「そういう考え方もあるよね」みたいなありふれたものに感じますが、それを実体験している人たちのことばには説得力があります。

いまは合理性や効率がとても大切にされている時代です。
魅力的なわかりやすいスライドとともに、ファクトとエビデンスを提示し、社会問題を解決するスマートな提案を数分で話す。そういうコミュニケーションがもてはやされています。
だけど筆者はカフェの立て直し等を行っていく中で、「誤配」が重要なんだということをどんどん実感していく。
そしてオフラインでの対面コミュニケーションでの「ちょっと失礼な事も言える」雑談から生まれるポジティブなものも。

・・・正しいことを知り、きちんと理解すれば、社会をいい方向に動かせるはずだという理想ですね。
けれど、本書の冒頭で語ったように、ぼくはこの10年ですっかりそういう理想にたいして懐疑的になってしまいました。
(中略)
ぼくは「知る」と「わかる」と「動かす」だけではダメだと考えるようになりました。
現実には世の中の問題は複雑で、長い歴史があったり利害関係が込み入っていたりして、「知れば知るほどわからなくなる」ことや「わかればわかるほど動けなくなる」ことが多い。
(中略)
ほんとうは、「知る」と「わかる」のあいだに、そして「わかる」と「動かす」のあいだに、「考える」というクッションが必要なのです。
(中略)
思考は誤配=雑談から生まれます。そして無駄な時間を必要とします。
ひとはたいていの場合、まったく思いも寄らないことをきっかけに「考え」始める。
飲み会は飲み会ですから、内容だけ見ればなんの勉強にもならない、取り留めのない話が多い。
そこだけ見れば出席の必要はないということになるでしょう。けれども現実としては明らかに成果につながっている。でもどうつながっているのかはわからない。
誰でもそうでしょうが、長時間の飲み会なんて、なにを話したかほとんど覚えていないものです。
けれども「すごかった」みたいな感覚は残り続けるし、結局はそういう感覚でひとは動く。

私もイベント運営に関わらせていただいていたとき、「最後の任意の飲み会こそが一番大事だ、だから強制ではないがしっかり誘え」という話を聞いていたし、何より自分自身がその「飲み会」を含めて強烈な印象があったから関わらせていただいていたという経緯があったので、筆者の言う「たけなわなら続行したほうがいい」「オフラインでの蜜なコミュニケーションや飲み会での雑談から思考が生まれる」のような感覚はとても納得できます。


「ぼくみたいなやつ」を集めたかったのは、責任を回避したかったから

もともとゲンロンは、「新しい書き手が報われる空間をつくりたい」とか、「似た仕事をやっているひとたちが集まって、語りあう場所を作りたい」という願いから始まった。ひらたくいうと「仲間を集めたかった」。

年齢や思想や方向性が似ていると思う人と集うのは、そりゃあ楽しい。
そして往々にして、「そうじゃない人たちというのは」みたいな「ウチとソト」話になりやすいと思う。
別にそれは悪い話でもないし、そういう自覚や覚悟が社会を変える活動をしていく人たちでもあると思う。

ただ、そういう「若手論客が集まる梁山泊みたいな軽薄な期待をもったひとが多かった(自分もそうだった)」という自覚がなかったことが、会社を経営するという時に大きな足枷になったようです。

代表を交代するシーンだけを読めば、「ワンマン経営者が、俺じゃないと出来ないに決まってる!といって結局自滅するあるあるパターン」にも見えるのですが、ここではちょっと違いますよね。ゲンロンの元々の目的が「オルタナティブな新しい言論の場を」というより「似たような人間が集う場所を作りたかった」というサークルみたいなノリなのに、それに気付いていなかったこと自体が問題だったというわけです。

ゲンロンを強くするためには「ぼくみたいなやつ」を集めなければならないと考えていた。
上田さんや徳久くんは大切な理解者だけれど、けっして「ぼくみたいなやつ」ではない。だから彼らとはべつに「ぼくみたいなやつ」を入れようとして、大澤さんや黒瀬さんによる集団指導体制を考えるようになっていた。
(中略)
そしてそれはまた、自分でいうのも情けない話ですが、自信の欠如や現実逃避と関係していたように思います。
(中略)
自分よりも立場の弱い、けれども「ぼくみたいなやつ」を仲間にすれば、失敗しても責任を回避できるからです。
だから、ぼくが求めていたのは、ほんとうは仲間ですらなかったのでしょう。
これは、程度は色々でしょうけれどよくある失敗談の一つなのではないかな。
大層な理想を掲げてやってるつもりでいて、実際は自分が気持ちのいいコミュニティを作りたいだけだった、という。

後者がダメなのではなく、本心で後者なら素直に自覚出来ているべきで、矛盾しているから周りが違和感を感じて離れていったりする。
こういうのって自分でも気付きづらいし、周りもはっきり気付けない(気付いたとしてもなかなか言えないよねぇ)ことが多いので、本当に定期的に自分を見つめ直すことをしたほうがいいよなと改めて思いました。

ITやベンチャーでよく使われる「プロジェクトチャーター」「インセプションデッキ」では、この辺のすり合わせをしっかりしろよ、ということを冒頭で促してくれるのですが、なかなか難しいんですよね。
いくら大事だと分かっていても、内なる自分の欲求をしっかり素直に言語化しきれる人ばかりではないから。


タイトルは「知の観客をつくる」

他にも、「観光」に関する考え方とか「観客」や「スケール」に関する話とかがあって、このボリュームなのにエッセンスは多いです。

「観光」という、ちょっと軽薄な気持ちで言ったほうが、変な思い込みがなくてより素直に状況に気づくことができるのではないか。

文化は演者だけでなく「質の高い顧客」によって成り立っていて、「顧客を育てる」のも大事であるということ。

お金の蓄積が自己目的化し、数に人間が振り回されるようになったときに、社会と文化は壊れていく。


ウチとソト(本書では「村人」と「よそ者」、「友」と「敵」、「信者」と「アンチ」)という、世界を分割する単純な思考から抜け出すために、「貨幣と商品の等価交換」、つまり、「緊張関係がありながらもずっと見守ってくれるひと」というつながりを維持することが大事。

などなど。


いまの日本に必要なのは啓蒙です。
啓蒙は「ファクトを伝える」こととはまったく異なる作業です。
ひとはいくら情報を与えても、見たいようにしか見ようとしません。
その前提のうえで、彼らの「見たいもの」そのものをどう変えるか。それが啓蒙なのです。
それは知識の伝達というよりも欲望の変形です。
人々を信者とアンチを分けていては(啓蒙など)けっしてできない。
啓蒙とは観客をつくるようなもの。
もっともっと無駄で親密で「危険」なコミュニケーションが必要。
「誤配」とはつまり啓蒙のこと───。



言論人ということで、事前の知識も深く広く、また言葉で思考を整理するのはとても上手い方なんでしょうね。
ご本人が考えていることや実際の出来事がすんなり入ってくる。(私が意図されたとおりに理解できているかは別の話…)


本書のハイライトは「ぼくが求めていたのは仲間ですらなかった」の下りだと思っているのですが、それは単純に私が盛り上がったというだけで、タイトルは「知の観客をつくる」です。

終盤の纏めを読むと分かりますが、現在ではご自身の当時の欲求を自覚の上である意味諦めているので、理想に矛盾なく「オルタナティブな場をつくる」ことを目的として活動を継続しておられるようです。
なので本書に目的があるとしたら純粋に「そういう観客を増やしたい」ということなのですね。

まさに、こういう、特にインテリコミュニティ界隈に発生しがちな「おれたちとそれ以外」というのがすっごく苦手なので若干警戒していたのですが、創業者がそれに対抗する思想で作り上げている場、ということで、何らかの形で触れていきたいなぁと思います。

ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる
東 浩紀 (著) (中公新書ラクレ, 709) 新書 – 2020/12/8