日本のいちばん長い日

2019-10-01史実に基づく・史実がベース, 邦画, non-fiction ノンフィクション

2015年度版。

戦後18年頃の文藝春秋の、関係者の座談会の記事を原作にしているらしい。
どおりでリアリティがあり、よけいな誇張表現がなく見やすいです。ちょっとドキュメンタリー風味ですね。



究極の貧乏くじ

本作、140分近くあり、しかも、日本の歴史上おそらく最も大きな「敗北」について、文字通り命をかけたやりとりが描かれています。人、死にます。
なので、内容的には全く淡々としていません。
でも、昭和天皇、鈴木首相、阿南陸軍大臣を中心に、おそらくもうほぼ、腹を括っているところから始まるからなのか、妙に淡々としているのです。

本作を見ていると、原爆投下よりだいぶ前から昭和天皇をはじめ上層部は「いかに"本土決戦派"を宥め、さらに日本国をできる限り平和に占領させるか」という、「どうやって負けるか」のほうに思案していたのだなと感じます。
というか、もう冷静に時間をかけて精神的な敗戦意味でのハラキリをずっと覚悟していたんだろうなと。

もしかすると原作や事実、全然そんなこと(原爆投下前から敗戦認識や本土決戦忌避)はなく、ただ客観的に描いていたからそう見えただけなのかもしれませんが、少なくとも、ほとんど予備知識のない私がこの映画を見て感じたのはそういうことでした。

阿南陸軍大臣の「ハラキリ」は「恥の文化」などではなく、周囲の溜飲を下げ、暴動が起きたりしないように、そして他の誰かに罪や罰が及ばないように、という、愛でしかない行動に見えました。

鈴木首相も、阿南大臣も、この内閣が形作られるときに(というか打診された時に)、ああこれは戦争を終わらせるための内閣だ(敗戦の将になりにいくという貧乏くじ)、ときっと分かっていたのではないでしょうか。

だから打診を受けた時点で、「ああこれ必死に安全に敗戦まで持っていった上に、敗戦の将として名を残すだけでなく実際にハラキリせねばならないかもしれない」というところまで想像していたのでは。
序盤、打診のシーンがやはり淡々として見えたのは、こういうのをお互いに分かりつつ、それでも、そんなことをお願いできる&やってのけるとしたらあなたしか居ないんだ、という信頼感と深い絶望感と愛、、、、があったからなのでしょう、きっと。


阿南大臣が、娘の結婚式について天皇に気にかけていただいたのだ、と涙ぐむシーン。
仲間や自分が命を捧げてきた雲の上の君主が、というか、鈴木首相を通して間接的に「敗戦の将になってくれ」と云うてきたとも言えるお方が、一個人として気遣いをしてくださった。
映画で描かれているのは「娘さんの結婚式は無事に執り行えたのか」「はい、場所は移しましたがなんとか」という、たったあれだけのやり取りなのに、あんなに心が震える会話があるのですね。

…というのも、終盤で阿南大臣が切腹することが分かって初めて、その意味が分かるのですが。

阿南大臣がもう帰らぬ人になるということを分かっていた奥様が、「夫が聞きたがっていた息子の死に様を伝え聞いた」から、居ても立っても居られず、死期を悟りつつも危険を顧みずに官邸に向かう、というのも…これ本当に史実なのでしょうか?できすぎてませんかね…(涙)。

これもまた、奥様は淡々としているのです。取り乱して泣き出したりとか決してしない。
夫が切腹する(状況的にも性格的にもせざるを得ない)ことも分かっていて、でもどうしても、どうしても伝えたくて、間に合わなかったと分かった後も、ご遺体に向かって静かに語って聞かせる。

1回目は呆然として見てましたが、たぶん、もう一度見たらここでボロ泣きしています…。


日本はまだ敗戦ではない!降伏反対派

そんな中で、やはり発生してしまった内部分裂。(ポツダム宣言受諾に反対するクーデター事件:宮城事件)

まあ、そもそも「この神の国で命を賭して戦え」と教育してきたわけですから、まだ内地にいた兵士たちが血気盛んに「まだ戦えるのにどうして国を売るんだ」と猛反発したっておかしくない。

東条さんが若手を鼓舞し、それに感化された若者が畑中氏であり、そしてそれを上層部は「何人か火をつけられました」と表現する。

東条さん自身は、その後直接昭和天皇にポツダム宣言受諾を撤回し本土決戦のご決断を、と「軍は貝の殻のようなもの」と進言するも、「相手国は殻ごと捨てるだろう」と言い返され、これに説得を諦めた様子が描かれています。

でも、「火をつけられた」畑中らは使命感に従ってクーデターを扇動。
クーデタを起こすために様々な隊のトップを脅したり説得したりを試みるも、逆に罵倒されてしまうなどあまり芳しくない。玉音放送の時間が近づくなか、説得に対して即断しなかった近衛第一師団長を殺害さえしてしまう。
また、放送局を乗っ取ったり放送関係者を拉致したり。皇居にて録音された玉音テープは、持ち出すのは危険と判断して宮城に保管されており、拉致された時に奪われることはなかった(すごい)。
結局、クーデターは不発となり、玉音放送放送の日、首謀者の畑中、椎崎の二人は自決。


劇中では昭和天皇が「これは応仁の乱だ」、と例え、そして堤真一演じる迫水(内閣書記官長)が「226事件と同じ」という。226事件もクーデター未遂ということでは同じ結果となったわけですね。。

当時の人たちの心境を想像しきることは困難ですが、もしかしたら、降伏反対派がクーデターを起こそうとしていた、ということを知って溜飲が下がった人もいたのかもしれません。

私は歴史に疎いので、まっさきに連想するのは西南戦争だったわけですが…。

先人たちが何を想い、どんな失敗をし、結果的に何を残してきてくれているのか、世の中を背負っているいい大人こそしっかりそれを学び受け取り、それを持って世作りしていかないといけないんだよな…と思わされる作品でした。



…ところでこの作品、タイトル逸品じゃないですか。
洋画の邦題っていつもいつも残念なことになるけど、これぞ邦画の表現力、という感じがしてとても好きです。